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形が見えていないのに語るのは誤解の元〜ベートーヴェン交響曲第2番冒頭

ベートーヴェンop36の2小節目アウフタクトが、まるで3/8拍子の拍節のように扱われるのを聴かされることは少なくない。だが、その3つの八分音符たちはあくまでも3/4のリズムの付点四分音符のシンコペーションでしかない。この八分音符たちを扱い間違えると楽譜の設定が狂い、この楽譜の縮尺がわからなくなる。そういうのが音並べの演奏の最悪のパターンだ。

この冒頭の場合、その8分音符たちを主役で扱うことよりも大事なことがある。それはこの3/4adagio moltoがどのような運動性を持っているのかを把握することだ。それを把握しなければ、結局この序奏は全体の中のどういう位置にあるのかが見えてこない。その空間把握が見えてこないから、音並べにしかならないのだ。

どこに向かい、その帰着する点があることによって、「形」が生じる。それが「論理」としての最小単位なのだ。音響が単に並んでいるだけでは論理にはならない。「オチ」がつかないことには伝える形は成立しないのだ。

文章を読むのが苦手な人は、論理の形を掴むことができない。というよりも論理が見えるまで、それを探ろうとする忍耐力や探究心が未発達なのだ。だから、わかりやすい単語やフレーズに反応してしまう。だが、それではその文章が伝えようとしている論旨は見えない。論理構造を掴もうと「考える」ことが「我慢できない」人には論理は見えてこない。もっと良くないのはその欠点を開き直ってしまうことだ。もっと危ないのは、その手近にある「わかりやすい」部分を拾って「わかっているつもり」になることだ。その把握は誤認の原因になる。

音楽もそれと同じだ。

このop36の冒頭も、その最初のフェルマータに何かしら「精神的なもの」を感じ過ぎてしまい全体像が掴めなくなる。確かにこのフェルマータは聴く者に「現実生活」とは切り離された作品の世界へ入ることを強要する効果はある。だが、演奏者がそこに騙されてしまっては、作品が作っている「形」は伝わらないのだ。つまり、その音楽はまるで見えていないのだ。

そもそも、この冒頭のアウフタクトにある32分音符はどこから生じているのか。そして、その1小節めのD音もだ。その根拠が見えないと、それを息のあった形で実現することはできない。フェルマータもこれみよがしにしかならない。

この冒頭は「難しい」というよりも、そもそもその冒頭が見え難いのだ。

この冒頭の動き自体はどこに向かっているのか。それが見えていないから、そのフェルマータに帰着してしまう。その1小節めの付点四分音符へのインパクトが続く木管のコーラスを立ち上げているのに、その一連の運動の流れを分断してしまう。さらにその立ち上がった運動の帰着点を5小節目に見てしまうからなおさら運動性が見えないのだ。その把握は「見間違い」なのだ。つまり、1小節目も2小節めも起点でも帰着点でもないのだ。これらは全てその前の運動が引き出している余波に過ぎないのだ。

結局のところ、この運動は1小節目の前に起点がある。そして、それは4小節目に帰着している。

0 1 •)2 3 | 4 5…

4小節目の2拍め裏からの付点リズムは4小節目にに帰着した運動のインパクトが引き起こした余波ですあり、それらが5小節目のアウフタクトとして機能する。つまり、5小節目はもう次の運動の流れに入っているのだ。

このリズムの脈絡が読めていないと、和声分析も役には立たない。それはK.425の冒頭の構造が誤解を招きやすいのと似たような状況だ。K.425もまた、その起点と帰着点を見い出しにくいのだ。

これらの曲は、や「遅すぎるadagio」のために形を完全に破壊されてきた典型なのだ。

巨大な音響が支配するイメージの音楽はおよそ把握を間違えている可能性がある。

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