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背中のバネと2ndヴァイオリン

シチェドリンによる有名なカルメン組曲。子供のころ、岩城宏之さんとN響の演奏で聞いたそれが忘れられない印象になっている。さて、その「闘牛士の歌」がなかなか面白い。なんと、伴奏だけになって、メロディが出てこないのだ。カラオケみたいになってる。でも、聞こえないはずのメロディが聴こえてくる。この効果は自分にとって、とても刺激となった。

聞き手は鳴っている音だけではなく、そのハーモニーから、その上にあるものを想像出来る力がある。というのが、そこで学んたこと。そして、もう一つはメロディがあって、伴奏ハーモニーやリズムがあるのではなく、むしろ、その逆なのだということだ。メロディのための土台があって、その上メロディが乗っている。そういう構造は、オーケストラのバランスを執る上で、何かしらのヒントになっている。

練習で、僕が1stvnよりも2ndvnやvaを捕まえることが多いのは、それと関係している。オクターブユニゾンでは下の音域の方が大事だし、だから特にブラームスの管弦楽作品で安易な対向配置を採らないのも、そこに関係する。時代考証なんかよりも、ずっと大事なコトだ。その対向配置では1stvnを載せられない。
また、ハイドンやモーツァルトの管弦楽作品では、特に2ndvnがしっかり構えていないと、中低音パートはその指針を失う。1stvn はオーケストラで統御できなくなる。こちらは対向配置の方がやりやすい。2ndvnが睨みを利かせ易いからだ。関連して言えば、ドイツ系の管弦楽作品を演奏する場合、2ndvnのトップの大事さを痛感するのだ。コンマスとは違う意味で大事な位置にある。ある意味で、縁の下の力持ちなのだ。

思い出したが、昔、2ndvnの方が1stbnよりも人数を増やしていた指揮者がいたという話しを聞いたことがある。特に古典作品では、とても納得出来る話しだと思う。

僕は大怪我をして以来、脚が悪いので、「歩く」という運動について、嫌というほど、いろいろ考えさせられる。
その考察や実践を通して、脚だけで歩くわけではない、というよく聞く話しを実感するようになった。最近、特に感じるのは背骨に頼っているところが大きいことだ。ヒトの背骨はまっすぐではないらしい。重たい脳を直立状態でも支えるために、バネのように身体をkeepするために、S字湾曲しているという。そのバネのような弾力は歩く時にも役立っている、最近はそう感じている。胸を開いて、背筋を伸ばす。そうすることで、胴体を骨盤に乗せる。やや後ろにズレた重心を背骨のバネが前に跳ね除ける。そうすると脚が自然と前に出てくる。

背骨があって、身体が動いていく感じだ。

何事も表面だけしか見ていないと、その本当の姿は見えてこないものだ。

大事なのはその表面を支えている全体の骨格なんだ。

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