音符ではなく作られる形から考える
ハイドンの交響曲に取り組んでいるとadagioのテンポ感について考えさせられる。結論から言えば決して遅いものではない。一般的な演奏に聞くあのテンポでは音楽が見えないのだ。
特に考えさせれるのはHob1:101と103だ。これらは3/4で設定されている。その内容は主部と深く関わる。例えば「時計」の序奏は二つの小節をセットにして
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と6拍子の拍節で歌うと、第1主題の原型がはっきり聞こえる。そして、その薄くシンプルな音響が高級な布地のような雰囲気を醸し出す。ここでのadagioは、重厚で厳粛なものと捉えがちなあのadagioとは求めているものが違うのだ。
「太鼓連打」のadagio序奏も同じように捉えると、第1楽章終結部での序奏再現の場面をスムーズに乗り換えられる。とても機能的な造りになっていることに気がつく。
20世紀によく聞かれたベートーヴェンの、例えば「エロイカ」の第2楽章とかが典型だが、そういう重厚で厳粛な演奏例を通して、adagioのイメージは塗り替えられてしまったのかもしれない。
音響で聴かせようとするとadagioはわかりにくい。だが、音がつくる音楽の形を見ようとするとadagioのテンポ感は自ずと見えてくる。
演奏のスタートを「聞いた記憶」から始めるから、楽譜を誤解する。ブラームスはテンポが遅めで…、とかはその典型的なステレオタイプでしかない。
演奏のスタートはまず楽譜で考えなくてはならないのだ。他人の演奏例など「個人差のある」使用例でしかない。それを基準にしてしまうことがそもそも愚かな失敗なのだ。
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