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なぜ二つめのフェルマータはタイで繋がれているのか〜ベートーヴェン交響曲第5番第1楽章

ベートーヴェンop67の第1楽章allegro con brioはそもそも2/4で書かれている。
耳で聞き馴染んでしまった感覚ではこの事実さえ「当たり前」になってしまう。快速さ、自然さを追求しすぎて知らないうちに無自覚に2/2になってしまう危険がある。

「当たり前」と思っているから楽譜を見ていない。2/2的にこの第1主題を歌うと思い切り快速な演奏にドライブすることはできる。だがその快感に騙される前に、なぜ2/4なのかを考える必要がある。

これは、例えばK.550の第1楽章やブラームスop98の第1楽章はなぜ4/4ではなく、2/2なのかを考える必要性とも同じだ。

耳馴染むという感覚に騙されてしまうとイデアがわからなくなる。優先すべきは感覚ではないのだ。楽譜の事実が最優先順位でなくてはならないのだ。感覚的にはどうあれ、一般論的な多数決的にはなんであれ、楽譜の事実こそが揺らぐことのない真実なのではないだろうか?

「衝撃のベートーヴェン開始」である冒頭の動機はともかく、第1主題の始まるきっかけはどこにあるのだろう。6小節めを動かすの5小節めのフェルマータ解除の運動である。

この5小節めのフェルマータ解除の動作が第1主題の全てを決しているのだ。

最近、考えているのはなぜ4小節めと5小節めがタイで繋がれているのか。そしてそこにフェルマータがある理由だ。
ひとつめのフェルマータよりも二つめのフェルマータの方を長くしたいから、と昔から言われている。だが、そのシンプルな理由よりも大事なことは「二つの小節がセットである」ことではないだろうか?

これはop62の冒頭が二つの小節を繋いでいることと同じ理屈だ。op62の場合は冒頭が二つの小節を分母とした6拍子となっている。この拍節が「主部」との対比を成している。それが読み取れなくてはこの序曲の形はわかるまい。

op67の場合、冒頭の骨格は小節の4拍子であって、この最後のタイによって、その後の第1主題提示の骨組みが二つの小節を分母とするものに変わることを示しているのではないだろうか。

昨日書いたように、この第1主題提示の8小節間は性格のはっきりとした提示とはいえない。方向性が決然と示せないままモヤッとした歌い出し方をしている。
その効果を活かすために、4小節めと5小節めはフェルマータで括られるのだ。

5小節めのフェルマータ解除の動きに伴って第1主題提示が行われる。だが、それは二つの小節をセットにした4拍子の骨組みで組まれている。5小節めフェルマータ解除を起点として、

①5 6 ②7 8 ③9 10 ④11 12

とゆったりとと幅を持たせる形を示した4拍子が示されると、13小節めからは、小節を分母にした6拍子が動き出す。それはまるでジェットコースターが頂点から滑り落ちるかのような変転振りである。

この6拍子は19小節めから再び繰り返される。その24小節めのフェルマータ解除をきっかけに音楽は小節の4拍子と6拍子の激しい応酬となっていく。

この小節の使い方が見えて、ようやく2/4である理由がわかってくるのだ。それは反対に誤った歌い方を規制することができるのだ。

感覚に頼ろうとするのは怠惰の始まりである。それはくだらない外部情報に頼るのと同じくらいに情け無い姿勢なのだ。原点である目の前の楽譜に戻って考える姿勢を見失ってはならないのだ。

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