アウフタクトから歌えるために
アウフタクトから歌い方を捉えようとする。弦楽器で、バッハとかハイドンに慣れ親しんた来た経験から得たコツ。
音楽はアウフタクトからスタートする、と捉えると、アウフタクトにはそれだけの幅が必要となる。こういうときに、小節の中の「均等な拍の枠線」の自然な融通の必要さを感じる。
よくある「強拍と弱拍」のリズム感では、自然な流れにならないのは、アウフタクトが見えていないからなのだと思う。
開放拍である「一拍目」の長い音符に足を深く踏み込んでしまう。あるいは踏み込んてしまおうと準備してしまう。それはリズム感が掴めていないからだ。予めアウフタクトが見えていないから、解放拍で息を使い過ぎてしまうのだ。
むしろ、アウフタクトのために、小節の中の幅をとって置かなければならないのだ。
チャイコフスキーop36第1楽章第1主題はそういう課題の典型的な例だろう。3つの付点四分音符の音楽であるこの主題は、小節の3拍目から始まるアウフタクトによってスタートする。だが、その後に続くフレーズでは、アウフタクトは2拍めからスタートする。
この歌い方の変更を予め意識していないと、1拍めに深く足を踏み込んでしまい、このアウフタクトに、息の余裕を持って幅を残すことができなくなる。それがうまく歌えない原因になっている。音響を聴いている感覚的な演奏になっていると、このあたりをクールに歌い渡ることはできなくなる。
背景のエピソードに振り回された重さよりも、イタリア風の歌いまわしの変化をいかに鮮やかに乗り越えていくかの方がよほど楽譜に沿った演奏なのだ。
ここにアンニュイな停滞を感じるのは、おそらく、この歌いまわしが見えていないからなのだろう。その不器用を「ロシア風」とか言い訳にしていても無意味だ。
この歌いまわしの変化をうまく渡っていくには「1拍め」に幅を持たせてはならない。むしろ、どれだけその面積を刈り取ることができるか、なのだ。
さて、結局、このフレーズの長いアウフタクトを立ち上げるためには、「1拍め」の面積を小さくすることが肝要だということになる。見方を変えれば、アウフタクトそのものを長く、大きく取ると言う発想では「手遅れ」なのだ。遅いテンポにシフトしてしまうのは、実はその筋道が読めていないからなのだ。
演奏は、常に、先を視ていなければならない。この「1拍め」を狭く取るためには、その前段階が必要だ。つまり、語る筋道を見通していなければならない。何度も、その道を通って知ることによって、理解していなければならない。
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