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「ひとつひとつの音を大切に」の発想が音楽を見えなくする

拍子は分数で表される。この時、分子が三の倍数である場合、分子は三連符化される。例えば6/8の分子は6つの八分音符となる。分母はその三連符化されたものを何で表すかを示すものになる。

だがその結果は例えば6拍子の分子、「三連符二つ分」というわけにはいかない。その捉え方はあくまでも便宜上の問題でしかない。6/8はあくまでも小節の6連符化であり、12/8は小節の12連符化である。つまり、6拍子は3拍子二つではない。12拍子は4拍子ではない。これを「複合拍子」と捉えるのは間違えている。

なぜ、その作品において3/8ではなく12/8や6/8で書かれているのかを吟味しないかといけない。あるいはその拍子の運動の動きを考察しなければならない。

その考察がないと単なる三連符化になるので「複合拍子」などという勘違いをしてしまう。音楽の学校でそう教えているのかもしれないが。

4/4は「2/4が二つ」なのか、2/2と4/4は同じなのかということを自問自答するべきだろう。3拍子とは?4拍子とは?それぞれがどういうことを目的とした拍子なのかを知ることが大事なのだ。
少なくとも古典やロマン派の作品の理解においては、5拍子も含めて「複合拍子」という発想は小節を分割することできない認識力の無さから生じる誤解でしかない。
拍子は、小節の運動の結果、どういうアウフタクトを生み出すているのかに関わる。例えば、ベートーヴェンop68の第2楽章の運動はアウフタクトの八分音符を導く運動であることがわかるとその呼吸が見えてくる。「小節の運動」から考えると、5や6や9や12で小節を分割できる力がなければ、この時代の音楽を立体的に再現することはできない。

そういう分割という視野からの認識力の無さは、例えばBWV244の導入な、K.626の「ラクリモーサ」で決定的に作品を破壊する演奏しかできない。3/8の四回分という呼吸では12拍子で予定されていた脈絡が完全に壊されてしまう。その破壊にすら気がつかない無頓着さはおそらく音楽が見えていないことに由来する。

このような作品の演奏によく見られる「ひとつひとつの音を丁寧に」という、一見真摯な姿勢は、実はまるで音楽が見えていないことを表しているに過ぎない。知っている記憶をなぞる前に、なぜ12拍子で書かれているのかを真剣に考えるべきなのだ。

音が感情を表すのではない。音楽がそれを表していくのだ。

この違いがわからない限り、「複合拍子」的発想から卒業することはできない。

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