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ぼくが9月新学期にアレな理由

9月入学・新学期制導入する・しないが話題になってる。

問題や課題はあるけれど、ぼくは“賛成”。

理由は、、、

交換留学が活発になるのを期待するからでもなければ、うちの子が一日中どうぶつの森で野外活動を行い、フォートナイトでバトルロイヤルを繰り広げ、他の子どもと学習に大きな差がついているからでもない。

交換留学がどのようなものかよくわからんし、9月新学期になっても、うちの子が勉強するとはとうてい思えないのだ。

なのに、ぼくが9月新学期に賛成する理由は、

野球をできる機会を取り戻せる!、、、かもしれない。学生として普通のことができる!、、、かもしれない

それだけ。

たとえば高校生。

春の選抜が中止になった。インターハイも中止になった。夏の大会も開催される可能性はかなり低い。

学生の本文は勉強、ということは頭でわかってるし、部活は学業の一環、
ということも頭でわかってる。

だけれども

高校を卒業して24年が経って、当時付き合っていた彼女の顔ははっきりと思い出せないし、高校数学で習った微分積分とか全く何のことかわからんし、

英語でグラマーとよばれる授業があったこともさっき思い出したぐらいだし、

そんな記憶喪失なぼくでも、記憶に鮮明に残っているのは、部活、野球なんだよね。

意識が飛んでしまいそうになるほどクッソ熱い中で、鼻毛が1日でボーボーになるくらいの黒土の砂埃の中で、吹奏楽部の震えるような美爆音の中で、

投げたボールの軌道とか、打たれた打球のアーチとか、仲間にかけられた声とか、記憶に残ってる。

で、その記憶には賞味期限なんてなくて、いつでも美味しくいただける。20年、30年と月日が経っても。

そんな記憶の缶詰を、現役球児にも持たせてやりたい。「最後の夏に野球ができなかった、やりたかったな…」とか「この経験がいつか君たちの財産になる」的な大人の安い言葉とか、そんな記憶ではなくて、

高校球児であれば当たり前に刻まれる記憶を、今年の球児も、来年の球児も
ずっと刻み続けて欲しい。ただそれだけ。

それが、狭い視野でしかモノゴトを考えられないぼくが9月新学期に賛成する理由。

甲子園はいつやるの?って問題もある。いや、それ以上に、授業料どうすんねんとか、先生や現場は大変なんだとか、大きな問題・課題が山積みなのもわかる。

そもそも、もう口にするのも嫌なので言わないけれど、“アレ”が9月以降におさまるかどうかもわからん。

が、9月新学期になれば、少なくても野球が普通にできる可能性は今よりある。

もしぼくが高校生なら、「あしたから夏の大会やるよ」と言われてもやってやる。同じ気持ちの球児は大勢いると思う。

そんな球児がいる限り、ギリギリのギリギリまで諦めたくない、と思うのは、先に当たり前を過ごさせてもらった高校球児、野球人としての最低限の責任だと思ってる。

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