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「俺は人の下に立てない」という言葉から確信した私の自由な気質について

私が尊敬している知り合いが、ビビっとくる一言を発していた。
イキってるとか、奢ってるとか、虚勢を張ってるとかではなく、そしてはたまた悩んでるわけでもなく、その不便さも含めて全てを受け入れた上で、単純な事実として「俺は人の下に立てない」と言っていた。
まあ、どちらかというとポジティブな感じで。

少し咀嚼するのに時間がかかった。実測だったら15分くらいかけて、その一言が自分の一部になった。でも、その言葉は私が寝るのを先延ばしにしてこのnoteを書くくらいには、そして今のこの躍動感のBPMを感じながら記録しておきたいと思うくらいには、私にとって重要な言葉だった。

簡単に言えば、自己理解が深まった。

私は自由だ。いい意味でも悪い意味でも、誰の言うことよりも自分の経験を優先して信じる。経験してみないと学ばない。というか、学びが好きな割には、怠惰すぎて、もっとも労力を必要とせずに、もっとも多く深く広く学べる「実体験方式」を好んでいる。

私のことは抑圧出来ない。自分でも時折嫌になるほど、私は自分の欲求を満たしてしまう。人を悲しませることは嫌いでも、自分の欲求を満たすためにはやってしまう。AV女優になったのもその1つだ。母が悲しむのを分かっていて、でも一度なりたいと思ってしまったら止められなかったのだ。

死にたいと思っていた時が一番厄介だった。このまま自分を放置していては本当に死んでしまうんじゃないかと思ってSOSを出したくらい、私は自分の欲求実現力を恐れていた。死にたいけど、死んだらどうなるのか分からないし、私が知ってる限り不可逆的な選択だし、親は絶対絶望的に悲しむし、私だって出来ることなら人を傷付けたくない、と。頑張って自分を止めたし、助けを求めたし、死にたいという気持ちと向き合った。ギリギリで立ち往生させられたおかげで、死よりも好ましい状態を想像出来るくらいには脳や心が回復したし、とりあえず最近は滅多に死にたくならない。

とにもかくも、私は私を抑圧できない。死を回避出来たのも、なんとか自分を一時停止させることによって時間を稼ぎ、欲求自体が変わったからであって、今現在も自死願望を抑圧しているわけではない。正確には「死にたい」という気持ちを「今のこの最悪な状態から逃げ出したい」と解釈することに成功したのだ。ようは、それくらい私は抑圧出来ない存在なのだ。

自分で自分を抑圧出来ないように、他者も私を抑圧できない。私が望んでいない限り、他者の思い通りには私は動かない。他者の願望と私の願望が重なって初めて、私は他者の思い通りに動く。

そういう意味で、私も人の下には立てない。他者の欲求を優先することが出来ないのだ。他者の願望よりも自分の願望の優先順位が下、という状態を叶えることは出来ない。先程の自死の例のように、私の欲求が変わるまで説得すれば叶うかもしれないが、説得された時点で、私からしたら相手と私は対等もしくは私の方が有利かもしれないので、私からすれば私は人の下に立っていない。従って、わたしも人の下には立てないという主張を自分の一部として看做す。

これに擬似した思考を知人の言葉に触発されてした。

そう、わたしは自由であることは好みや努力の次元の話である前に、そういう生き物なのである。お腹が空くように、睡眠するように、わたしは自由なのだ。

一応仕事の文脈で発せられた言葉なので、そのことも触れよう。私は雇用された身でもいつも私の自由を尊重してくれる上司に恵まれた。多少のミスやルール違反も私の貢献する何かに免じて許して貰えた。そしていつからか、フリーランスの身となり、翻訳や女優業をしている。

ただ、私は今回勝手にそれを自身に関するより普遍的かつ包括的な事実として解釈をした。仕事以外のことにも当てはめてそうだと感じたのである。まあ、一個一個確かめたというよりは、もっと雑に確信したが。

そして、そんな私の普遍的かつ包括的な自由な気質を色んな形で他者に見破られたことはある。

とある私のファンは私のAV作品での演技を「まるでセックスが食事をしたり息をするかのように、遠慮なく、当たり前のことかのように振る舞う」といった趣旨の感想を言っていた。

私の初めての彼氏は私の自由さをとても好いてくれた。ゆえに他の人と私がセックスすることを許してくれた。

母が弟にするようにつきっきりでアドバイスしてくれたら私もきっと成功するのにと愚痴をこぼしたら、「リアスちゃんは弟とは性格が違うから自由にさせてる」と言われた。

とあるAVメーカーのプロデューサーさんには「リアスちゃんの自由すぎるところが好き」と言ってもらったことがある。

そんなこんなで、私にとって自由であることは、生きることとほぼ同義であることに関して、今まで色んな人に見透かされていた。

が、しかし、ここまでにそれを確信したのは、今回の知人による言葉が大きい。これもまた、誰かに言われた自分に関することよりも、他者が他者について表した言葉を私が勝手に、そう、自由に、解釈したというのは、あまりにも私の自由な気質と一貫性が高く自分でも笑ってしまう。



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