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『関心領域』を観た感想、考察、懺悔

この記事には、映画「関心領域」のネタバレを含みます。
まだ観てない方はネタバレ注意です⚠️

実はホロコーストに関連する大学の授業は2つ、そして高校では世界史の授業を2つ取っていたので(うち1つはアメリカの教科書を使用した英語で行われる授業)、19世紀終わりから20世紀前半のドイツ及びヨーロッパ史は何度か勉強しています。

その中でも今回の映画を観るにあたって参考になったのが、大学の授業で読んだハンナ・アーレントの『悪の凡庸性』と「ホロコーストメモリアル」という、ホロコーストに関しての記憶、記録、著作物、映像、博物館などを広く取り扱った授業でした。

『悪の凡庸性』はエーリッヒ・アイヒマンというナチスの中間管理職の公務員の戦後の裁判を取材した上で、アーレントが当時のユダヤ人コミュニティから非難轟々の中書き上げた、雑誌の連載を書籍化した本で、すごく雑に要約してしまうと、アイヒマンは極悪人と呼ぶには余りにも平凡で、あまりにも自分の頭で考えない、ただただ上からの指示を彼の部下たちが実行できるように、計画、そして指示を行っていた一介の公務員であった、ということでした。これは少し「関心領域」の主人公、ルドルフ・ヘスにも共通する部分があり、唯一違うところとしたら、ヘスは自分の仕事で「最大限の結果」を出そうとした野心家な公務員で、アイヒマンはそうした野心すらも特別見い出せないほどに、自分の仕事に個人的な関心を持たない人間だったということでしょうか。

確かに作中のヘスは自身のユダヤ人大量殺戮計画の効率性や効果性に誇りを持ち、該当作戦が「ヘス作戦」と呼ばれることを妻に自慢し、アウシュヴィッツの監修役から、ベルリン本部での、より組織的に上位にあたる役職に異動になったことも、出世として受け止めていた描写がありました。

どちらも明らかに罪の意識の欠如がみられ、そして自分が関わっている「作戦」に対する倫理的関心が一切見当たりません。初見では理解し難いレベルの関心の欠如ですが、『悪の凡庸性』を勉強した後だと、似たような人は実在していたので、ヘスの関心が家族の幸せと自身のキャリアに限定されている事に、あまり違和感を覚えませんでした。少なくとも、私の解釈では、ラストシーンでヘスが吐いているのは、ユダヤ人大量殺戮に対する罪の意識の芽生えとは思いません。飲みすぎたか、自分の「業績」が現代では一切のポジティブな評価はなく、なんならナチスが行った殺戮行為を彼の仕業だとも批判されない、いわばヘスという1人のナチス公務員に対する関心の欠如に対する第六感的な恐怖を表していたのかなと思います。

現代のアウシュヴィッツで掃除をする職員達の描写が差し込まれているあたり、彼もただただアウシュヴィッツで「仕事」をしていた名前も知られていない人物に過ぎず、その現代社会の無関心さに、わたしが一視聴者として感じたこの映画や登場人物に対する気持ち悪さと似たようなものの表現として、吐いていたのかなと思います。どちらにしろ、ヘスは最初から最後まで自分の行動を悔いることなく、視聴者はなんの救いもないストーリーを観せられます。

「関心領域」は私の友人が「変態映画」と呼ぶに相応しいほど、登場人物と常に一定の距離を保った映像のみで構成され、近年稀にみる単調な映画でした。その映像手法自体に強い監督のメッセージを感じるのは、多くの批評家も言っていることみたいです。アウシュヴィッツ内の描写は音のみで行われ、ヘス一家の楽園のようなお家の庭の壁の向こう側としてしか映画内では触れられません。

しかし、このことに私が気持ち悪さ、違和感、殺戮の傍観者としての自意識を感じることが出来るのは、これまでに数多のホロコーストに関する記憶、記録、手記、フィクション作品を勉強してきたからなのだと思います。「ホロコーストメモリアル」の授業では「関心領域」の監督が資料として参考にしたと言っているプリモ・レヴィの詩集や手記も読みましたし、ホロコーストから逃れようとするも収容所送りになってしまう一家のドラマの一部や、ナチスとユダヤ人の立場を逆転させたようなハチャメチャ映画の「イングロリアス・バスターズ」も観ました。授業とは別時期に観た『ピアニスト』、『縞模様のパジャマの少年』、『夜と霧』、『僕を愛した二つの国』、『シンドラーのリスト』にもより直接的にナチスドイツによる大量殺戮が描写されていました。

現代ではこうして教科書、博物館、小説、映画、ドラマなど様々な媒体でナチスの強制収容所内で行われていたナチスによる私物の窃盗、強制労働、大量殺戮に関して知ることが出来るから、『関心領域』で描写がなくても、その描写の欠如が産むおぞましさや罪深さを感じることが出来るのかなと思います。ナチスドイツ降伏後すぐの強制収容所で撮られた写真が世界に出回るまでは、ドイツ本国ですら一般市民には知られていなかったアウシュヴィッツを始めとする強制収容所内での恐怖の数々でしたが、『関心領域』のような映画がアカデミー賞にノミネートされたり、映画館がほぼ満席になるほどの観客がみにきて、多くの人がその意味を理解できるほどになったのだと思います。ホロコーストの想起の仕方や内容は脈々と繋がり、何十年経った今でも続いているのだなと思いました。

とはいえ、ホロコースト以外の大量殺戮や、今も起きている戦争などに対する自分の無関心さや目を背けている事実を突きつけられて、良い気分はしなかったです。現代資本主義の搾取と貧富の差の上に成り立つ自分の何不自由ない生活も、現実逃避の一端を担う自分のAV女優としての仕事も、私がヘス一家と同じく"壁のこちら側"にいる人間であることの証拠です。

すくなくとも私は、暗闇の中、一種の義務感に駆られたように、慌ただしく、そして少なくないリスクを背負いながら食べ物を収容所の中の人々のために置いていたポーランド人の少女でありたいと思いました。地理的、または心理的に遠い場所で起きてる大惨事に関心は向けられなくても、目の前で起きている不条理を無視しない。どんなに微力でも自分の出来ることをする。自分に得はなくても、心の中に自分の正義を持って、自分の住みたい世界を想像して、少しでも近づけられる事が私に出来るならやりたい。一応そういう性分ではあるので、時に傍から見たらなんの得もない行動を取っているように見えるのですが、自分の身を滅ぼさない程度にりんごを配りたいです。でも、それでも自分のためにしているんですよね。自分で自分を客観的に見た時にカッコ悪いのが嫌だから。

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