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コーンスープ缶

22時前の駅構内。口に添えた缶を上に向け、底を叩きながら、フラフラ歩く男の子とすれ違った。小学6年生くらい。カンカンは優しい黄色のパッケージ。コーンスープだ。

危ないよ〜と思いつつ、底を叩いちゃう気持ち、わかるなあと思う。きっとプルタブの縁の裏にコーンの実がいるんだろう。なかなか取れないんだよね。全部食べたいよね、と微笑ましく目で追いかけてしまった。

すれ違った後も、あの子は塾の帰りかな、ご飯は食べたのかな、と気になって考える。


こんなふうに、夜遅くに帰路につく幼い学生を見かけることがけっこうある。みんな早いうちから塾に行くのも、帰りが遅くなるのも当たり前なんだろう。
それに、ときたま朝の早い時間の電車で、小学校低学年くらいの子を見かけてびっくりすることもある。地元では小学生で電車通学なんてあり得なかったので、都会の子はこの時分から、1人で電車に乗って勉強しにいくのね、といつも感心する。

正直、そういう子を見ると、そんなに頑張っているなんて大丈夫? 休んだほうが......とおせっかいにも心配の気持ちが湧く。
でもそうすることで、拓ける未来があることも分かるので、いつも最後には「それぞれの選択だよね」と思うことで溜飲を下げている。


すれ違う子たちがみんな自分自身で選択しているのかは分からない。いやいやながらやっているのかもしれないし、自ら進んでやっているのかもしれない。いずれにしても、彼らは行動を蓄積している。えらい。
一方で、わたしは大抵のことを自分自身で選択ができる。というか、自分しか選択してくれる人はいない。

……と分かっていても、現実は難しい。
どういう選択を「すべき」かは不明瞭だし、どんな選択を「したい」のかさえ、日々大きな揺れが観測される。

フラフラで危ないのはわたしじゃん、と反省の念がやってくる。学校に行き、塾に行き、自分の足で帰って、ほっとひと息つく工夫も知っているあの男の子のほうが、ずっとしっかりしているよ。見習わなくては。

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