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バルカン半島史⑥ ~ペルシア戦争~

紀元前5世紀前半、東方のアケメネス朝ペルシアとギリシャのポリス連合軍との間で数次に及ぶ大規模な戦闘が起こった。ペルシア戦争である。発端となったのは、小アジアのエーゲ海沿岸に位置するイオニア地方のミレトスを中心としたギリシャ植民市が、当地を支配していたペルシアに対して反乱を起こしたことである。アテネを中心としたギリシャ本土のポリス連合はミレトスに援軍を送った。反乱を鎮圧したペルシアの専制君主ダレイオス1世は前492年にギリシャへの大遠征軍を差し向けたが、暴風雨に遭って撤退。2年後に第二次遠征軍を送り、エーゲ海の島々を制圧しながら、ギリシャ本土のアッティカ地方に上陸したのである。

ギリシャの危機に際して、アテネを中心としたポリス連合軍は団結し、アッティカ地方東岸のマラトンでペルシア軍を迎え撃った。アテネのミルティアデスが指揮する重装歩兵密集部隊の活躍によってギリシャ側が勝利し、ペルシア軍は撤退。この時、ギリシャの勝利を知らせる使者が、マラトンからアテネまでの40キロ以上の道のりを走り抜いたという伝承が、マラソンという競技名の語源であるという。

マラトンの戦いから10年後の前480年、ペルシアのクセルクセス1世が自ら大軍を率いて再びギリシャへの侵攻を企てる。一時はアテネを占領するところまで攻め込んだペルシア軍であったが、アテネの指揮官テミストクレス率いる海軍がサラミスの海戦で勝利してペルシア軍を撃退した。敗れたクセルクセスは帰国し、ギリシャ本土に残存したペルシア軍はなおも戦闘を続けたものの、アテネ・スパルタ連合軍によってプラタイアの陸戦とミュカレの海戦で壊滅的な敗北を喫し、ここにペルシアのギリシャ征服の野望は潰えたのである。

敗れたとはいえ、強大なペルシア帝国自体が滅んだわけではない。東方の大国はその後もギリシャ世界にとって脅威であり続けた。逆に言えば、その脅威があったからこそ、数多くのポリスが団結し得たのだとも言えよう。連合軍の核となったアテネのポリス内での地位は大きく高まり、重装歩兵として活躍した平民の発言権が強まったことで、古代ギリシャの民主政は充実期を迎えた。前478年にはペルシアの再侵攻に備えて、アテネを盟主とするデロス同盟が結成された。同盟はアテネの地位を更に高めたが、それによって、もうひとつの強大ポリスであるスパルタとの関係が次第に悪化する事態にもなった。前461年、アテネの若き指導者となったペリクレスは、民主政の更なる完成を目指して改革に着手する。「ペリクレス時代」とも呼ばれる、アテネ全盛期の始まりであった。

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