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オリエント・中東史㊹ ~オスロ合意~

1980年代後半、イスラエル占領下のガザ地区で当局からの人権抑圧に対し、パレスチナ住民による自然発生的な暴動(インティファーダ)が起こった。重装備のイスラエル軍や銃器を持つイスラエル警察に対して投石などで必死の抵抗を続ける住民たちの姿は国際世論を動かし、パレスチナ人の人権保護と自治実現を求める声が強くなった。PLO代表のアラファト議長は、これを機に従来の武装闘争路線からイスラエルとパレスチナの二国家共存路線へと方針を転換し、まずは自治政府の樹立を目指すことにした。イスラエル側でも労働党政権のラビン首相が従来の強硬路線を改め、PLOとの対話に応じる姿勢を見せた。1993年、ノルウェーのホルスト外相の仲介で両者はノルウェーの首都オスロにて相互承認を行い、米国もPLOをパレスチナの合法的代表として認めた。同年9月、米国ワシントンにおいて、ラビン首相とアラファト議長の間でパレスチナ暫定自治協定が交わされ、イスラエルとパレスチナの歴史的な和平への機運が高まったのである。ラビン首相とアラファト議長は、翌年のノーベル平和賞を揃って受賞した。

だが、事はそう簡単には進まなかった。40年以上の歳月を経て積もり積もった確執は、首脳同士の合意によっても容易には動かなかったのだ。イスラエル側でもパレスチナ側でも、和平に反対する勢力のテロや衝突が相次ぎ、95年にはラビン首相が国内の狂信的なユダヤ教徒の青年に暗殺される。25年ぶりにパレスチナの地に戻って暫定自治政府の代表となったアラファト議長の統治も行き詰まりを見せ、イスラエル側ではラビン首相の暗殺後に強硬派のネタニヤフ政権が誕生し、和平への動きは停滞した。

暫定自治協定では5年間の暫定自治期間を置き、その間にエルサレムの帰属やパレスチナ難民の処遇、安全保障や国境画定などを含めた最終協定について協議を進めることになっていた。だが、協議は遅々として進まず、テロや暴動、和平派と強硬派の衝突もやまなかった。2004年にはアラファト議長も死去し、オスロ合意から30年以上を経た現在においても、最終協定への道は全く見えず、それどころか状況は更に悪化しているように見えるのが現状である。

それでは、オスロ合意は全くの無駄骨に過ぎなかったのだろうか? そうは思えない。たとえ実現への道は見えなくとも、両首脳が和平への方向性を示し得ただけでも、貴重な前進であったと言えるのではなかろうか。ラビン首相は、かつてはパレスチナ人への容赦ない攻撃を加えた強硬派の軍人だったという。アラファト議長も、かつてはイスラエルへのテロにも手を染めた武闘派パレスチナゲリラのリーダーであった。二人が握手を交わすオスロ合意の歴史的瞬間をとらえた写真は、人は誰もが変わり得るものだということを証明しているような気がするのだ。

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