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連載日本史263 高度成長期の国際情勢

1961年、ベルリンの壁が築かれた。戦後、東西に分裂したドイツでは、東ドイツ領内に位置するベルリンも東西に分かれていたが、互いの往来は自由であった。しかし、東側から西ベルリンを通じて西ドイツへと流出する人々が後を絶たず、危機感を抱いた東独政府が西ベルリン地区を包囲する壁を建設したのだ。形の上では西ベルリンを隔離する壁であったが、実質的には東ドイツ国民を西側へ逃がさないための壁であった。すなわち、東独政府は、自国民を閉じ込めるための壁を築いたのである。

ベルリンの壁(Wikipediaより)

1962年にはキューバ危機が起こった。ソ連の軍事支援を受けたキューバが極秘に核ミサイル基地を建設していることを米国の偵察機が発見。米軍がキューバを海上封鎖し、緊張は一気に高まった。世界が核戦争の恐怖をリアルに実感した瞬間だった。米国のケネディ大統領とソ連のフルシチョフ第一書記の間で緊迫した交渉が行われ、ソ連がミサイル撤去に応じたことで、ギリギリのところで衝突は回避された。翌年には部分的核実験禁止条約が調印された。米ソともに、このまま際限のない核軍拡競争を続けていては共倒れになるとの危機感を抱いたのだ。だが、同年11月にケネディ大統領が暗殺され、その翌年にはフルシチョフ第一書記が解任される。その年、中国が初の核実験を行い、核保有国の脅威はさらに広がった。東西冷戦は激しさを増し、米国は資本主義陣営と社会主義陣営の代理戦争の場となったベトナム戦争の泥沼にはまりこんでいくのである。

キューバ危機関係地図(nikkan-gendai.comより)

1965年には佐藤内閣と韓国の朴正煕政権との間で日韓基本条約が調印され、日韓国交正常化が実現した。約11億ドルに上る経済協力をもって、先の戦争に関する賠償請求権を放棄するという政治決着がなされたのである。だが、いまだ南北朝鮮は分裂状態にあり、日本の戦争責任をうやむやにする条約を韓国のみと締結することに対して、内外から激しい反対運動も起こった。

ベトナム戦争関係地図(adsj-bnm.comより)

1967年にはASEAN(東南アジア諸国連合)、68年にはOAPEC(アラブ石油輸出国機構)が結成され、世界は多極化に向かう兆しを見せ始めた。同年には核兵器拡散防止条約が調印された。日本は非核三原則を掲げながらも、米国寄りの姿勢を変えず、ベトナム戦争では沖縄の米軍基地が重要な後方基地となった。ベトナム戦争に反対する声は日本でも高まり、それは10年ぶりの日米安保改定に対する反対運動や学生運動と結びつき、大きなうねりとなっていくのである。

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