バルカン半島史㉖ ~第二次世界大戦~
1929年の米国株式市場の大暴落に端を発した世界恐慌はファシズムの呼び水となった。イタリアではムッソリーニ、ドイツではヒトラーが台頭し、日本では満州事変に続いて5・15事件、2・26事件とテロが相次ぎ、軍部が政権の中枢を掌握するようになった。これら三国を中心とした枢軸国は海外の植民地獲得に活路を求め、英仏を中心とした連合国陣営と次第に対立してゆく。その影響はバルカン半島にも及んだ。1939年、ナチス・ドイツのヒトラー政権が軍事侵攻で隣国チェコスロバキアを解体に追い込んで自国領土を拡大すると、イタリアのムッソリーニ政権も同様にアドリア海を隔てた対岸のバルカン半島に侵攻してアルバニアを併合する。さらにドイツは独ソ不可侵条約を結んだ上でポーランドに侵攻し、英仏との本格的な戦争が始まった。第二次世界大戦である。
強大な軍事力で周辺諸国を次々と侵略したナチス・ドイツは1940年にはパリを占領してフランスを降伏させた。同年に成立した日独伊三国同盟によって欧州とアジアの戦争が結びつき、戦争は世界規模でさらに多くの国々を巻き込んでゆく。翌年、ルーマニアとブルガリアを枢軸国側に引き込んだドイツは、バルカン半島を南下してユーゴスラビアに侵攻。さらにイタリアと共謀してギリシャをも制圧し、バルカン半島全域を支配下に収めた。
ユーゴスラビアは独伊によって分割された。セルビアはドイツ、モンテネグロはイタリア、スロベニアは両国で折半というわけだ。クロアチアとボスニア・ヘルツェゴヴィナは傀儡国家としてのクロアチア独立国となり、ムッソリーニの支援を受けて、狂信的な民族浄化思想を持つファシスト集団ウスタシャが政権を握った。ウスタシャは純粋クロアチア民族国家の建設を目指してセルビア人を弾圧し、彼らの信じる東方正教や彼らの使用するキリル文字を禁止した。ウスタシャ時代に殺害されたセルビア人は30万人に及ぶという説もある。ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺と同じ構図が、バルカン半島でも繰り広げられたのだ。
ナチスとウスタファの圧政に対して、占領下のユーゴスラビアで二つの流れの抵抗運動が起こった。ひとつはセルビア民族主義を掲げるチュトニク、もうひとつはカリスマ指導者ティトーが率いるユーゴスラビア共産党のパルチザンである。チュトニクはウスタシャへの報復として20万人に及ぶクロアチア人を殺害し、さらに8万人に及ぶムスリムをも殺害した。一方、パルチザンは民族の垣根を越えた抵抗運動を組織し、ファシズム政権に対して根強いゲリラ戦を続けた。どちらが広範な支持を得たかは明らかであろう。偏狭な民族主義に対して民族主義で対抗することは、虐げられた人々の力を一時的に結集するのには有効かもしれないが、結局は報復の連鎖を生み出すことになるのだ。
ゲルマン民族の優越を掲げるナチスと軌を一にするバルカン半島の民族浄化の嵐は汎セルビア主義を掲げていたソ連を刺激し、独ソ不可侵条約の破棄からソ連の対独参戦へとつながってゆく。一方、アジア・太平洋方面では日米が開戦し、大戦は新たな局面に入った。開戦当初は優勢だった枢軸国側は、次第に連合国側の物量作戦に押され、後退を余儀なくされてゆく。イタリアが降伏した1943年には、パルチザンは国土の約半分を枢軸国側の支配から解放し、戦後のユーゴ再統一への道を開いた。
1945年、ドイツと日本の無条件降伏をもって終結した第二次世界大戦は、第一次大戦と同じく、大きな傷跡を世界に残した。バルカン半島も例外ではなかった。そのトラウマは戦後の冷戦下で数十年にわたって潜伏し、やがて再び火を噴くことになるのである。
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