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連載日本史131 江戸幕府(6)

原城に立てこもったキリシタンは三万八千人、対する幕府軍は十二万人、兵力差は明らかであったが、天草四郎の指揮下でキリシタン側は徹底して抗戦した。総攻撃を命じた幕府軍の板倉重昌は戦死し後継の松平信綱は兵糧攻めに戦法を切り替えた。海側からはオランダ軍艦が幕府軍の援護に加わった。キリシタン側は最後まで抵抗したが、オランダ軍艦の砲撃もあり1638年2月には原城が陥落、天草四郎は自害して果て、多くの犠牲者を生んだ島原の乱は一年以上を経てようやく終結したのであった。

一揆軍が籠城した原城跡(Wikipediaより)

なぜオランダはキリスト教徒たちを見捨て、幕府軍に与したのだろう? そこには当時のヨーロッパの政治情勢が反映しているように思われる。16世紀に始まった宗教改革は、カトリック(旧教)とプロテスタント(新教)の激しい対立を生んだ。日本で最初にキリスト教布教を始めたフランシスコ=ザビエルはイエズス会、すなわちカトリックの宣教師である。その後も布教を進めたのが旧教国のスペイン・フランス・イタリアからの宣教師だったため、初期の日本のキリスト教徒たちはカトリックであった。一方、オランダは新教国、すなわちプロテスタントが主流の新興国である。そして島原の乱が起こった17世紀前半のヨーロッパは、旧教と新教の対立を発端とした三十年戦争の真っ最中であった。加えてオランダには、幕府に恩を売ることによって、その後の貿易交渉を有利に進めようという打算があったに違いない。

三十年戦争の経過(「世界の歴史まっぷ」より)

無論、苦しい籠城戦を続けるキリシタンたちに、そのような政治力学が理解できるはずもない。彼らからすれば、同じキリスト教徒であるはずのオランダ船からの砲撃は、信仰への裏切りに見えたことだろう。純粋な信仰ゆえに権力者から危険視され、純粋な信仰ゆえに政治の利害に巻き込まれ利用される。そう考えると、そもそも信仰とは何なのだろうという疑問を抱かざるをえない。

長崎・五島列島に残る隠れキリシタンの洞窟(nagasaki-tabinet.comより)

原城のキリシタンは全滅したが、各地の信者たちは監視の目を盗んで密かに礼拝を行い、常に命の危険にさらされながら、隠れキリシタンとして信仰を守った。語弊のある言い方かもしれないが、迫害を受けたがゆえに、信仰がいっそう純化されたという一面もあるのではないかと感じられる。

江戸幕府の貿易統制(「世界の歴史まっぷ」より)

島原の乱の終結後、果たしてオランダは幕府の信任を得て、日本との貿易を独占する特権を得る。宗教と貿易を切り離して考えるオランダの合理的(打算的)思考は幕府の方針にも沿うものであった。1639年にはポルトガル船の来航が禁じられ、1641年には出島に移されたオランダ商館が、ヨーロッパと日本をつなぐ唯一の窓口となった。以降、貿易は完全に幕府の管理統制下に置かれ、相手国は中国・朝鮮とオランダに限定された。いわゆる「鎖国」体制の完成である。





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