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連載日本史231 ファシズムの台頭(1)
1932年、満州移民案が議会で可決され、秋には第一次、翌年には第二次の武装移民団が入植した。移民団は小銃・迫撃砲・重機関銃を備え、抗日ゲリラの襲撃に対抗した。それだけの抵抗が予想されていたわけで、初期の入植は命がけであった。第三次以降は開拓農民として、農地の開墾に重点が置かれるようになる。満州への移民促進の背景には、対米関係の悪化による米国の排日移民法の制定や、日本の農村の貧窮があった。つまりは、外交や内政の行き詰まりを、満州への入植によって打開しようとしたわけだ。軍部だけではない。新聞各社も満州国支援の共同声明を出した。マスコミも積極的に国策としての満州国建国を支持したのだ。
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1933年、国際連盟はリットン調査団の報告書に基づき、満州における中国の主権を認め、日本の占領を不当として日本軍の満鉄付属地内への撤兵を求める対日勧告案を臨時総会に提出した。勧告案が42対1で可決されると松岡洋祐ら日本全権代表は議場から退出し、国際連盟脱退を通告した。新聞各紙は「堂々の退場」として連盟脱退を支持した。たとえ国際的に孤立しようとも国策が最優先という雰囲気である。本来、権力のブレーキとなるべきはずのジャーナリズムが、むしろ積極的に戦争へのアクセルを踏み込んでいた。
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1934年、斎藤内閣の後を受けて成立した岡田啓介内閣では、陸軍省から「国防の本義とその強化の提唱」と銘打ったパンフレットが発行され、軍部の政治介入が本格化した。翌年には大正デモクラシーの理論的支柱であった美濃部達吉の天皇機関説が反国体的だと国会で非難を浴び、岡田内閣は国体明徴声明を出して美濃部学説を否認した。社会主義のみならず、自由主義的言論も反国体的であると排斥される時代になったのである。
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激しい弾圧や国家主義の台頭により、社会主義者の転向も相次いだ。1932年には天皇の下での国家社会主義を掲げる日本国家社会党が結成され、社会大衆党も次第に国家社会主義化していった。1933年には日本共産党の最高幹部たちが獄中から連名で転向声明を発表した。同じ年、プロレタリア文学の旗手であった小林多喜二は、特高警察の拷問を受けて死亡している。京都帝大の滝川事件、東京帝大の矢内原事件など、自由主義的学説を掲げた学者たちも次々と休職・辞職に追い込まれていった。
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同じ頃、イタリアやドイツでもムッソリーニやヒトラーが台頭し、ファシズムの嵐が吹き荒れていた。ドイツでのファシズムは共産主義者の弾圧に始まり、次に社会民主主義者や労働組合員も弾圧の対象となり、やがてユダヤ人への迫害と大量虐殺に至る。ドイツの牧師であったニーメラーは、後に当時の自分自身を振り返って、以下のような言葉を残している。
「彼らが最初に共産主義者を攻撃した時、私は声を上げなかった。
私は共産主義者ではなかったから。
社会民主主義者が牢獄に入れられた時、私は声を上げなかった。
私は社会民主主義者ではなかったから。
彼らがユダヤ人を攻撃した時、私は声を上げなかった。
私はユダヤ人ではなかったから。
そして彼らが私を攻撃した時、
私のために声を上げる者は誰一人残ってはいなかった。」
戦前の日本でも、同じことが起こっていたのだ。そして今も、ファシズムの芽は、私たちの心の中にある。
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