見出し画像

連載日本史225 大正・昭和初期の文化(2)

大正から昭和初期にかけて、文学の世界も多様化した。人道主義の立場から理想を追求した武者小路実篤・志賀直哉・有島武郎らの白樺派、官能美・感覚美を追求した永井荷風や谷崎潤一郎らの耽美派、理知的な作風で現実を直視しようとする芥川龍之介や菊池寛らの新思潮派などに加えて、社会運動の高揚に伴い、小林多喜二や葉山嘉樹、徳永直らによるプロレタリア文学も勃興した。一方、そうした動きから距離を置く川端康成や横光利一らの新感覚派の作家たちも現れた。また、新聞や大衆雑誌の普及によって、大衆文学のジャンルも確立し、中里介山・直木三十五・吉川英治・江戸川乱歩・大佛次郎・林芙美子らの流行作家が活躍した。

大正期の文学(「世界の歴史まっぷ」より)

詩歌では、高村光太郎・萩原朔太郎・室生犀星らが日本の近代詩を確立させた。高村光太郎は彫刻家としても活躍している。また、宮沢賢治は詩人としても、児童文学作家としても、後世に高い評価を得た。和歌ではアララギ派が斎藤茂吉や島木赤彦らの歌人を輩出している。

大正期の日本画(「世界の歴史まっぷ」より)

美術界では、ヨーロッパの印象派の影響を受けて、岸田劉生・安井曽太郎・梅原竜三郎らの洋画家が活躍した。彼らは官主導の文展に対抗して、二科会や春陽会などの民間の美術組織を立ち上げた。日本画では横山大観・下村観山・安田靫彦・小林古径らが日本美術院を中心として活躍し、竹内栖鳳や土田麦僊は京都で国画創作協会を旗揚げした。いずれも、明治期の官主導の美術界に対抗する動きであり、市民芸術の萌芽を示すものであった。

山田耕筰(Wikipediaより)

音楽では洋楽が一気に普及し、三浦環はオペラ「蝶々夫人」で世界的な名声を獲得し、山田耕筰は日本初の交響楽団である東京フィルハーモニーを創立した。山田は数多くの童謡の作曲者としても活躍している。また、ラジオや蓄音機、レコードなどの普及によって、全国的な流行歌が生まれるようになった。 演劇では島村抱月・松井須磨子らの芸術座が新劇の発展を担っていたが、彼らの死によって自然消滅し、芸術座を脱退した沢田正二郎が立ち上げた新国劇が、演劇の大衆化に成功して人気を博した。一方、土方与志・小山内薫らは自由劇場の流れを引く築地小劇場を設立し、知識人層に大きな反響を呼んだ。

浅草を描いた絵葉書(「東京ワンダーランド」より)

大正・昭和初期の文化を語るキーワードは「大衆」である。当時の文化を指して「市民文化」と呼ぶこともあるが、本来、市民と大衆は異なる概念である。市民が共同体において政治的責任を負う顕名性を帯びた構成員であるのに対し、大衆は集団としての力を持つ一方で個人としては責任を負わない匿名性を帯びた群衆を指す。言葉の定義には若干の異同もあろうが、顕名性と匿名性が両者を区別する重要な要素であることは確かだろう。大正・昭和初期の文化には、確かに市民文化の要素があった。しかし、関東大震災前後の世相や、それに続く昭和恐慌の様相を見ていると、「市民」よりは「大衆」の語を充てる方がふさわしいと感じるのだが、どうだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?