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連載日本史92 建武の新政(2)

建武の新政二年目の1335年、鎌倉幕府の生き残りである北条時行による、中先代の乱が起こった。時行は鎌倉将軍府の足利直義(ただよし)軍を破って鎌倉を占拠、旧幕府勢力としての最後の抵抗を試みたのである。直義の兄でもある尊氏は、時行追討のため、後醍醐天皇に征夷大将軍任命を願い出るが、尊氏の勢力伸長を恐れる朝廷はこれを拒否。それでも尊氏は朝廷の命令を無視して鎌倉へ下り、時行軍を撃破した。その後、尊氏追討に向かった新田義貞軍を箱根・竹ノ下の戦いで撃破した尊氏は、勢いを駆ってそのまま京へと攻め上ったのである。

建武新政時の戦い(「世界の歴史まっぷ」より)

翌年、楠木正成らの軍に敗れた尊氏は、京から九州まで下って再起を図る。その間、尊氏は後醍醐天皇によって退位させられた光厳上皇から義貞追討の院宣を得ることに成功し、朝敵の汚名を免れていた。持明院統と大覚寺統の対立を巧妙に利用したわけである。尊氏は更に元弘の変での没収地返付令を出し、武士たちの既得権益を保障したので、多くの武士たちが尊氏支持へと傾いた。北九州の多々良浜の戦いで菊池武敏軍を撃破した尊氏は再び京へと攻め上る。楠木正成は後醍醐天皇に尊氏との和睦を説いたが却下され、次に京都での迎撃を進言したが再び却下される。死を覚悟して摂津まで打って出た正成は、湊川の戦いで尊氏軍に破れ自害した。京都を占拠した尊氏は、持明院統の光明天皇を擁立し、建武式目を制定して鎌倉幕府政治の継承を宣言した。敗れた後醍醐天皇は京を脱出して奈良の吉野に逃れ、自らが正当な天皇であると宣言。ここに建武の新政はわずか二年あまりで破綻し、京都(北朝)と吉野(南朝)に天皇が並び立つ南北朝時代が始まったのである。

奈良・吉野朝皇居跡(吉野町HPより)

建武の新政が短命に終わったのは時代の流れを完全に読み違えていたこと、特に支配階級としての武士の力を侮っていたことに尽きる。後醍醐天皇は天皇を中心とした中央集権国家という、かつての律令政治が目指した大義名分を重んじたが、それは彼が理想とした醍醐・村上天皇の治世でさえも一度も完遂したことのない、いわば「絵に描いた餅」的な国家ビジョンであった。

もちろん「絵に描いた餅」は、革命を起こす際には重要な旗印となる。大化の改新や明治維新は、そうしたビジョンがあったからこそ成し得た革命である。だが、絵に描いた餅を掲げて旧勢力を打倒した後には、多少の妥協を重ねながらも、実際に食べられる餅を保障しなければ政治は成り立たない。建武の新政に決定的に欠けていたのは、絵に描いた餅を実際の餅へと転化していくために必要なリアリズムだったのではなかろうか。

楠木正成を祀った神戸・湊川神社(Wikipediaより)

「太平記」には、楠木正成が敗戦を覚悟して摂津湊川に赴く際に、「元弘の変では反乱軍の側であったにも関わらず多くの武士が参集してくれたが、今回は天皇の側であるにも関わらず兵が集まらない」と嘆く様子が描かれている。これはつまり、当時の武士たちが、天皇の名の下という「大義」ではなく、自らの利害に従って参戦していたことを示す事象であると言える。彼らにとっての「大義」とは、実質的な権益を保障してくれるものでなければならなかったのだ。


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