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連載中国史50 清(9)

1904年、朝鮮半島と満州の権益を巡って対立を深めていた日露両国は、旅順港に停泊していたロシア艦隊への日本側の奇襲攻撃を皮切りに開戦した。主戦場となったのは、清の領土である満州である。迷惑な話だが、すでに清には自国内での他国の軍事行動を抑えるだけの力もなかった。

日露戦争関係地図(アジア歴史資料センターHPより)

旅順要塞を巡る死闘と奉天会戦、そして当時最強といわれたロシアのバルチック艦隊を日本海軍が撃破した日本海海戦の勝利により、1905年には日本の勝利が確定した。米国大統領セオドア・ルーズベルトの仲介で結ばれたポーツマス条約で、日本は朝鮮半島における優越権と遼東半島南部の租借権を得た上に、東清鉄道支線(南満州鉄道)と南樺太の譲渡を受けた。当時の国力からみて戦争継続が困難であった日本政府とすれば妥当な成果であったが、そうした事情のわからない一般大衆は賠償金が得られなかったことで講和に反対し、日比谷公会堂焼き討ちなどの暴動を起こした。後で振り返ってみれば、多くの犠牲を払って日露戦争に勝利したがゆえに、日本は更に大陸での権益に執着するようになり、次なる戦争の泥沼へと足を踏み入れてゆくことになるのである。

日露戦争の影響で生まれた東郷ビール(東京法令「ビジュアル世界史」より)

ヨーロッパの大国であるロシアに日本が勝利したことで、アジア各地の民族運動に火がついた。中国も例外ではなかった。清は遅まきながら科挙や軍事処を廃止し、憲法大綱を発表して国会開設を約束するなど、政治体制の変革を進めようとしたが、既に人々は清朝を見限り、革命を唱える諸勢力や、独自に勢力を伸ばした北方軍閥が、政権打倒に向けて動き始めていた。一方、大陸への野望をあらわにした日本は、1910年に韓国を併合。反植民地闘争を続けるアジアの人々を少なからず失望させることとなった。

日本の韓国併合と満州進出(「世界の歴史まっぷ」より)

1911年、清政府の鉄道国有令に対する反発から、四川省で暴動が発生。革命勢力はこれを機に、武昌を拠点として清朝打倒を目指して一斉蜂起した。辛亥革命の勃発である。

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