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連載日本史61 院政(2)

白河上皇をして天下三不如意のひとつと言わしめた山法師(僧兵)とは、どのような存在だったのであろうか。

「南都北嶺」という言葉がある。「南都」は奈良の興福寺、「北嶺」は比叡山の延暦寺を指す。興福寺は藤原氏の氏寺として、延暦寺は都の鬼門(北東)を守護する宗教的権威として、いずれも大量の荘園を所有し、寺院や寺領荘園の自営のために武装した僧兵を擁していた。興福寺には春日神社の神木、延暦寺には日吉神社の神輿という神がかりのシンボルがあり、僧兵たちはそれを押し立てて、荘園の利益確保や人事介入の問題解決を求め、朝廷に対してしばしば強訴を行った。水戸黄門の印籠みたいなものである。僧兵たちの都への乱入を防ぐために、南都(興福寺)に対しては宇治川、北嶺(比叡山)に対しては鴨川に防衛線が張られ、白河院によって設置された北面の武士たちが僧兵の入京阻止にあたった。

興福寺の僧兵(Wikipediaより)

祟りを恐れる平安貴族たちにとって、宗教的権威を盾に自らの要求を通そうとする僧兵たちは非常に厄介な存在であった。それを制圧する武士たちは、次第に政治の中枢へと近づき、存在感を増すようになっていった。1098年には白河上皇によって源義家が、1132年には鳥羽上皇によって平忠盛が、それぞれ院への昇殿を許可されている。これは、軍事の下請け機関として、貴族たちから一段低く見られていた武士階級にとって画期的な出来事であった。僧兵たちの脅威が、それに対抗する武士の地位を押し上げたのだ。

院政の機構(「山川 詳説日本史図録」より)

源氏・平氏を中心とする武士たちが院政を軍事面で支えたのに対し、経済面で院政を支えたのは院領荘園と院知行国であった。知行国とは一国の支配権をまるごと与えられ、国守の任命から目代の派遣、国衙領の統治、税の徴収に至るまでの広大な権利を手にすることができる制度である。いわば公領の私領化であると言ってもいい。売位・売官も公然と行われ、「末法の世」が現実のものとなりつつあった。



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