見出し画像

オリエント・中東史⑥ ~四王国分立時代~

アッシリアの滅亡後、オリエントはエジプト・リディア・メディア・新バビロニアの四王国分立時代に入った。これらの国々は、それぞれ支配語族が異なる。エジプトはハム系、リディアとメディアはインド・ヨーロッパ系、新バビロニアはセム系である。すなわちオリエントには、古くから言語体系の大きく異なる民族が混在していたということだ。新バビロニアに建設された高さ90mのジッグラト(聖塔)は旧約聖書に登場するバベルの塔のモデルといわれるが、聖書の記述では、人間が天に届くような塔を建て始めたことに神が立腹し、互いの言葉を通じないようにして建設を中断させたということになっており、多言語世界での意思疎通の難しさを寓話化しているようで興味深い。

前7世紀末から前6世紀前半にかけて在位した新バビロニアのネブカドネザル2世は、ジッグラトの他に空中庭園やイシュタル門などの壮大な建築事業を手がけ、首都バビロンは大いに繁栄し、彼の治世は「バビロンの栄華」と呼ばれた。前586年、彼はレヴァント地方で辛うじて独立を保っていたユダ王国を滅ぼし、住民を強制的にバビロンへと連行して酷使した。いわゆるバビロン捕囚である。モーセの出エジプトからヘブライ王国建国、イスラエル王国とユダ王国の分立を経て、700年近くの命脈を保ったユダヤ人の独立国家は、ここに潰えたのである。しかし、この受難の歴史は、ユダヤ民族の結束とユダヤ教を通じた選民意識を一層強めることになった。

一方、アナトリアを支配地域としてサルデスに都を置いたリディアでは隣接するエーゲ海・イオニア地方を通じたギリシア世界との交易が活発になり、世界初の貨幣を鋳造した。また、エジプトを一時支配した黒人王朝のクシュ王国はアッシリア時代にナイル川上流域へと後退し、現在のスーダンにあたる地域を領域としてメロエ王国を建てた。アッシリアの滅亡後はエジプト人が自らの王朝を復興し、ナイル川下流域のサイスを都とした。再興されたエジプト王国は、かつての王朝との連続性をふまえて第26王朝と呼ばれた。

イラン高原からアナトリア東部にまで至る地域を支配し、四王国で最も広大な版図を有したのは、イラン民族によって建国されたメディアである。その領域内において、イラン高原南西部を拠点として興ったアケメネス朝ペルシアは前6世紀のキュロス2世の時代にメディアから独立。その後、リディア、新バビロニアを次々と滅ぼした。当時のリディアはクロイソス王の治世下でエーゲ海沿岸のエフェソスに巨大なアルテミス神殿を建設し、ミレトスの自然哲学者タレースやギリシアの賢人ソロンを招くなど高い文化を誇っていたが、ペルシアの強大な軍事力によって制圧された。リディア最後の王となったクロイソス王は、「平和な時には子が父を葬るが、戦争では父が子を葬らねばならない」との名言を残している。新バビロニアも前538年にキュロス2世によって滅ぼされたが、その際に彼はバビロン捕囚下にあったユダヤ人を解放した。そのため、ユダヤ教の聖典である旧約聖書では、キュロス2世は解放者として称えられている。

次いで王位に就いたカンピュセス2世は前525年にエジプトを滅ぼして全オリエントを統一し、イラン高原からアナトリアにまで至る大帝国を現出した。アッシリアの二倍以上の支配領域を持つ本格的な世界帝国の誕生であった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?