見出し画像

連載日本史217 第一次世界大戦(1)

19世紀末の欧州では、遅れて台頭してきた帝国主義国のドイツが、皇帝ウィルヘルム二世のもとで軍備を拡張し、オーストリア・イタリアとともに三国同盟を形成していた。一方、ロシア・フランス・イギリスは三国協商を組んでこれに対抗した。「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれたバルカン半島では、スラブ系とゲルマン系の民族対立に宗教対立が絡んで一触即発の様相を呈していた。1914年6月、サラエボを訪問中のオーストリア皇太子がセルビア人青年に暗殺される事件が勃発。オーストリアがセルビアに宣戦布告すると、各国が同盟関係に従って次々と宣戦布告。日本も大隈内閣のもとで、日英同盟を理由としてドイツに宣戦布告し、第一次世界大戦に参戦したのである。

第一次世界大戦中のヨーロッパ(「世界の歴史まっぷ」より)

日本の参戦は、この機に太平洋や中国大陸での勢力を拡張しようという下心があったからにほかならない。欧州で激戦が展開されている間に、日本軍はドイツ領南洋諸島やドイツの租借地である山東省青島を占領。翌年には袁世凱政府に対し、山東省の権益の継承や満蒙の権益延長、中国政府への日本人顧問・日本人警察官の雇用などを含む21カ条の要求を突きつけた。建国間もない中華民国の政情不安につけこみ、欧米列強が欧州での戦闘に足をとられている隙に、中国を日本の支配下に置こうとしたのである。さすがに政権中枢への日本人顧問・警察官の雇用は見送られたが、軍事力を背景とした日本の恫喝外交に、袁世凱政権は21カ条中16カ条の受諾を余儀なくされた。中華民国では、その屈辱を忘れないように、5月9日を国恥記念日としたという。

日本の参戦関係図(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

大隈内閣の後を受けた寺内正毅内閣は、袁世凱の死後に実権を握った段祺瑞政権に対して私設秘書官の西原亀三を通じて多額の借款を供与し、中国での日本の勢力拡大を図った。恫喝外交の次は札束外交というわけだ。1917年、イギリスの要請で日本は地中海に艦隊を派遣し、ドイツの無制限潜水艦作戦からの連合国軍輸送船護衛にあたった。続いて米国との間に石井・ランシング協定を締結。日本は米国が主張する中国の領土保全・門戸開放の原則を確認し、米国は中国における日本の特殊権益を承認することが定められた。

世界の主な戦争・武力紛争による犠牲者概数

大戦の戦火は拡大し、戦闘は四年余りも続いた。飛行機・戦車・毒ガス・機関銃・潜水艦など、大量の新兵器が次々と投入された。民間人も含めた犠牲者数は2000万を超える。帝国主義列強が植民地から収奪して蓄えた膨大な富は戦場での殺戮兵器に惜しげもなく注ぎ込まれたのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?