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トマトと楽土と小日本 ~賢治・莞爾・湛山の遺したもの~⑧

戦時中における非合理的精神論の代表とされ「生きて虜囚の辱めを受けず」のフレーズで知られる『戦陣訓』は、1941年に東条英機陸相(後に首相)によって発令されたものである。東条と対立関係にあり、『戦陣訓』を無視したと伝えられる石原莞爾は、竹槍作戦や特攻隊を考案した戦争末期の指導者層に比較すれば、相対的に合理的思考力のある人物であったと推測される。だが彼の場合、その論理の裏付けとなる事実や数値が、多分に自己の主張に沿ったものに偏り、時には意識的に、時には無意識のうちに、都合の悪い要素を排除して自説を組み立てていたように思われるのだ。失脚後の彼は、かつて満州国に自ら思い描いた「五族協和」の実現を目指して東亜聯盟を立ち上げたが、そこには激化する反植民地闘争の現実から目を背け、自身の描く未来図に賛同する人間ばかりを集めたような一面が垣間見える。湛山の小日本主義が、反対者の説く論理も含めて、広く目配りされた豊富なデータに基づいていたのとは対照的である。
 
敗戦直後の1945年8月、湛山は東洋経済新報に、いちはやく「更生日本の門出 前途は実に洋々たり」と題する社説を掲げた。曰く、今は茫然自失して何もせずにいる時ではなく、いたずらに悲憤慷慨に時間を費やしている場合でもない。日本の前途を悲観するのは、これまで国民に与えられてきた教養が不足しているからであって、無理もないことだ。…確かに、我が国はこれまでの領土を失い、また、軍需産業にも制限を受けざるを得ない。しかし、これらのことが、今後絶えず発展していこうとする日本国民にとって、いったいどれほどの妨げになるだろうか、と――。

湛山にとって敗戦後の日本は、かねてからの持論である小日本主義を実現するのに絶好の舞台であった。ようやく時代が湛山に追いついたのだと言ってもいい。湛山が終戦直後の国政選挙に立候補し、政界入りを目指したのは、至極当然の帰結であった。惜しくも落選はしたものの、戦前・戦中を通じて発信し続けた経済や国際関係における深い洞察力と確かな見識が評価され、第一次吉田内閣の蔵相に抜擢された。自由貿易・国際協調主義を是とする湛山にとってみれば、戦争放棄を掲げた新憲法は、経済復興に国力を集中できるという功利主義的観点からみても、多くの人々を死に追いやった愚かな戦争への反省の上に立った新国家建設という倫理的観点からも、歓迎すべきものであった。

しかしながら、GHQの経済政策方針と必ずしも一致しない湛山の姿勢が煙たがられたのか、1947年に湛山は公職追放の憂き目に遭う。戦時中の帝国主義支持が理由であったが、湛山の業績を見る限り、明らかな濡れ衣であることは間違いない。米国一辺倒に傾きつつあった吉田首相と、自主独立路線に傾く湛山は、ここで袂を分かつこととなったのである。

公職追放によって湛山が試練のさなかにあった1949年夏、石原莞爾は故郷の山形にて病死した。享年60歳。軍部中枢と対立関係にあったことが幸いしてか、戦犯としての訴追を免れた莞爾は、晩年は数名の同志とともに集団農場を営み、耕作に勤しんだという。彼の夢見た理想郷は、死を迎えるまでの僅かな期間ではあったが、彼の手の届く範囲でのみ、辛うじて実現をみたのではなかろうか。

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