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連載日本史133 江戸幕府(8)

幕藩体制の経済を支えたのは第一に農民からの年貢であった。そのため幕府は農民へのさまざまな規制を行っている。農村・漁村・山村には名主(庄屋・肝煎)・組頭・百姓代の村方三役が置かれ、その下に五人組が組織された。連帯責任と相互監視による農村管理体制である。農民は田畑を持つ本百姓と、その下で働く隷属農民(名子・被官)、小作や雑業で生活する水呑に大別され、本百姓が年貢の納入を担った。階層を細かく分化させ、それぞれの分限を明確にすることで、体制の安定を図ったのである。

江戸時代の社会構造(ihmlab.netより)

本百姓の負担は多岐にわたる。まず田畑・屋敷地に課せられる本途物成(本年貢)である。米納が原則だが、一部貨幣納もあった。賦課方式には、収穫量に応じた検見法と、豊凶に関わらず一定量を徴収する定免法があり、課税比率は四公六民から五公五民、すなわち所得税が四割から五割というあたりで、かなりの重税であると言える。加えて副業などに課せられる小物成、村高に応じた付加税としての高掛物、治水工事などの労役にあたる国役、街道近辺の村々からの人馬提供としての助郷役など、農民・農村には多くの負担が課せられた。

田畑永代売買禁止令(東京書籍「図説日本史」より)

これだけ負担が重ければ、逃げ出す百姓が続出しそうなものである。無論、百姓に逃げられたなら、幕府も藩も成り立たない。当時の農業人口は七割を超え、四人に三人が百姓であった。大名や村の規模を石高で表したことでもわかる通り、米を主軸とした農業が幕藩体制における経済の基盤であり、農村の安定は幕府にとっても藩にとっても死活問題であった。幕府は1642年には作付制限令、翌年には田畑永代売買禁止令、1673年には分地制限令というように本百姓の統制に関する法令を次々と出し、規制を強める一方で、穢多(えた)・非人と呼ばれる被差別民を規定し、相対的に百姓の身分を上位とした。おまえたちはまだ恵まれている、下見て暮らせ、というわけだ。「百姓は生かさず殺さず」と家康は言ったそうだが、その懐柔策のために作られた被差別部落は、近現代に至るまで、後世への禍根を残した。

江戸時代の身分制度のイメージ(rekisiru.comより)
<従来の「士農工商」の認識が現在では修正されつつある>

町人に対しても、幕府は細かく階層を分けた。町奉行の下に町役人、その下に地主・家持があり、農村同様、五人組による連帯責任体制がとられた。更にその下には地借・店借や奉公人たちが位置し、奉公人は番頭・手代・丁稚と序列づけれていた。商工業者には、冥加・運上などの営業税、臨時の賦課金である御用金、清掃などの町人足役が課され、農村ほどではないにせよ、さまざまな管理統制の仕組みが張り巡らされていた。

百姓・町人の統制と税負担(東京書籍「図説日本史」より)

家康・秀忠・家光の三代にわたって築かれた江戸幕府の礎は、身分・階級の細分化による徹底した分割支配に貫かれていた。大名統制・朝廷対応・宗教政策・外交・経済・身分制度、いずれをとっても「安定」が最優先であり、プライドやコンプレックス、嫉妬や羨望、連帯意識や集団への帰属意識、利己心や罪悪感など人間心理を巧みに利用した仕掛けが随所に施されていた。泰平の世の創出には少数者の犠牲が必要なのだという冷徹なリアリズムが、そこにはあった。家康の征夷大将軍就任から家光の死まで、十七世紀前半の五十年は、江戸幕府にとどまらず、現代にまで連なる日本社会の精神的基底が醸成された時代だったのだ。良くも悪くも――。




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