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連載日本史245 占領政策(3)

GHQが日本政府に示した民主化政策のもうひとつの柱は、労働組合の結成促進であった。労働者の権利が十分に守られず、富の再分配システムが機能していなかったことが、日本の国内需要を滞らせ、更なる対外膨張と軍備拡張に入るという悪循環に陥っていたことを、GHQは見抜いていたのである。1945年の暮れに労働組合法が成立すると、各分野で次々と労働組合が結成された。翌年5月には11年ぶりのメーデーが開催され、全国各地で百数十万人もの人々が参加した。同年8月には日本労働組合総同盟と全日本産業別労働組合会議が結成され、翌月には労働関係調整法が公布された。法制面でのバックアップを得て、各地で労働条件の向上を目指す労働争議が相次ぎ、それらは次第に政治的色彩を持つようになっていった。

半日以上のストライキ参加者数の推移(japanlabor.partyより)

一方で、予想以上の労働運動の高まりに対して、GHQは危惧を抱き始めていた。日本の労働運動はあくまでGHQの想定する経済の民主化の枠内にとどまるべきものであり、そこを超えて政治的影響力を持ちすぎるのは危険だと判断されたのだ。1947年2月に予定されていたゼネスト(一斉ストライキ)はマッカーサーからの命令により中止された。労働者の権利向上は重要だが、労働運動がGHQの占領支配を脅かす力を得ることは許されなかったのだ。

勤労権・労働三権と労働三法(manareki.comより)

1947年には労働基準法が公布され、労働時間の上限・週休制度・時間外労働の制限・有給休暇や生理休暇の保障・児童労働の禁止などが定められた。これで労働基準法・労働組合法・労働関係調整法の、いわゆる労働三法が出揃ったことになる。こうした労働法制の整備も、本来は日本政府がリーダーシップをとって行うべきものであったはずだが、GHQによる圧力によってやっと実現に至ったものだ。戦争による犠牲は大きく、占領下の屈辱は少なからずあったと思うが、こうしてみるとやはり敗戦は必然の帰結ではなかったかと思わざるを得ない。そして、占領統治下で実現した最も大きな改革が、新憲法の制定であった。

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