オリエント・中東史⑭ ~イスラム教の誕生~
ササン朝ペルシアとビザンツ帝国の抗争が激化した7世紀初頭の610年、新たな商業交通路の要となったアラビア半島の都市メッカの商人であったムハンマドが、神の啓示を受けて伝道を開始した。イスラム教の誕生である。
ムハンマドは自らを最後の預言者と称し、カーバ神殿の主神アッラーを唯一神として崇拝し、喜捨や善行の義務を説いた。砂漠の厳しい自然環境と戦乱の時代を背景として、神への絶対的な帰依と服従を唱え、偶像崇拝を禁じ、六信五行などの具体的な実践を明確にした彼の教えは、布教当初は迫害を受けたものの、最初の信者でもあった妻のハディージャの支えもあって徐々に信者を増やしていった。622年にはメッカでの迫害を逃れたムハンマド以下70名あまりの信者たちがメディナへと移住し、教団国家(ウンマ)が発足した。いわゆる聖遷(ヒジュラ)である。この年がイスラム暦元年となった。ムハンマドは反イスラム勢力との戦いをジハード(聖戦)と位置づけて信徒(ムスリム)の結束を促し、630年にはメッカを奪回してカーバ神殿の偶像を破壊し、アラビア半島を拠点に本格的な布教活動に乗り出したのである。
当初はアラビア人主体であったイスラム教が、民族や地域の枠を超えて急速に広まったのは、キリスト教と同じく、神の前の平等や信仰に基づく実践の重視など、世界宗教としての普遍性を有していたからだと考えられる。加えてイスラム教には、当時のオリエント・中東地域の社会状況に即した具体的な教義が含まれていた。1人の男性に4人までの妻を認めるという一夫多妻は戦乱の多かった時代の未亡人救済策であったと思われるし、豚肉を食べてはいけないという禁忌は食中毒防止の目的もあっただろう。飲酒の禁止も一種の治安対策と言えなくはない。また、反対勢力との抗争を「聖戦」と位置付けたり、イスラム暦の創始によって時間の支配を図るなど、他の宗教に比べて当初から政治色が強かったのも特徴的である。イスラム教の急速な拡大は政教一致の帝国支配の拡大でもあった。
632年にムハンマドが死去すると、後継者としてのカリフにその権威は継承された。ムハンマドの教えはコーランとしてまとめられ、当初は口承で暗誦されて伝えられ、やがて文書として大成された。信者は拡大の一途を辿り、それとともに帝国の版図も拡大した。初代カリフのアブー・バクルはアラビア半島を統一し、2代目のウマルはシリアとエジプトをビザンツ帝国から奪い、642年にはニハーヴァンドの戦いでササン朝ペルシアを撃破してイラン高原に進出。西アジア一帯に勢力を拡大した。ムハンマドのメディナへの聖遷から、わずか20年後のことである。
領土が拡大し、権力が強大になれば、その中での主導権争いが激しくなるのも世の常である。第3代カリフのウスマン、第4代カリフのアリーは、いずれも暗殺の憂き目にあった。アリーの死後、カリフとして君臨したムアーウィヤは、それまで互選であったカリフの地位を世襲とし、661年にシリアのダマスクスを首都としてウマイヤ朝を創始した。一方、アリーの子孫を正統カリフとする一派はシーア派を形成し、ウマイヤ朝のカリフを支持するスンナ派と対立する。帝国の拡大と教団の内部分裂が並行して進む、混乱の時代が始まったのだ。
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