見出し画像

バルカン半島史⑧ ~アテネとスパルタ~

古代ギリシャの数あるポリスの中でも、アテネとスパルタは別格の規模を持って並び立つ両雄であった。だが両者の成り立ちは、真逆と言っても良いほどに異なっていたのである。

イオニア人の集住(シノイキシモス)によって成立したアテネは前7世紀のドラコンの立法や前6世紀のソロンの改革によって民主政(ディモクラティア)の足場を固め、前508年のクレイステネスの改革や前5世紀前半のテミストクレスの活躍によるペルシア戦争の勝利によって古代民主政を確立した。外港のピレウスと一体化したアテネは、海運による交易の中心地として大きな利益を上げるとともに、三段櫂船を主力とした強大な海軍力を背景に、エーゲ海一帯のポリスをまとめたデロス同盟の盟主として君臨した。アテネの郊外にはラウレリオン銀山があり、豊富な銀の産出は貨幣経済の普及を促した。民主政アテネの全盛期となったペリクレス時代には、哲学・演劇・建築などの文化も最盛期を迎え、文化的にもアテネは地中海世界の一大中心地となったのだ。

一方、ドーリア人の南下によって成立したスパルタは、少数の兵士階級(ラケダイモン)のみが支配階級としての市民となり、多数の農奴(ヘロット)や職人階級(ペリオイコイ)を支配した。いわゆる寡頭政(オルガルキア)である。前7世紀頃から前6世紀半ば頃までに成立したとされるリュクルゴスの制は、軍国主義・一国主義・厳格教育などを旨としたスパルタの国体を確立したものであり、スパルタは徹底してその体制を守り抜こうとした。厳しい鍛錬についていけない子供は死んでも構わないというほどの強烈な教育は現代におけるスパルタ教育の語源ともなった。

内陸国であるスパルタが一国主義を貫こうとすれば、軍事政策は自然と陸軍中心となる。アテネ主導で銀貨による貨幣経済が広まりつつあったギリシャにおいて、スパルタ国内では鉄貨のみが流通しており、エーゲ海のみならず地中海全体の交易から取り残されそうになってもスパルタは意に介さなかった。スパルタの属するペロポネソス半島では軍事大国スパルタを盟主とするペロポネソス同盟が結成されていたが、アテネ主導のデロス同盟が安全保障のみならず経済面も含めた利益共同体であったのに対し、ペロポネソス同盟は互いの独立性を守るためのものであって経済共同体としての機能はなかった。一口で言えば、グローバル志向のアテネとローカル志向のスパルタという正反対の方向性を持っていたということだ。

集住と征服、民主政と寡頭政、海と陸、グローバルとローカル、何から何まで対照的に見える両国が前5世紀後半まで決定的な対立に至らずにすんだのは、強大な敵国ペルシアの存在があったからだ。前480年のサラミスの海戦と翌年のプラタイアの陸戦は、アテネ海軍とスパルタ陸軍のそれぞれの強みが遺憾なく発揮された戦闘であった。アテネとスパルタが手を携えて戦ったからこそ、大国ペルシアを撃退することができたのである。

しかし、ペルシアの脅威が去ると、両国の亀裂が次第に大きくなり始める。前454年、デロス同盟の金庫をアテネがデロス島からアテネ市内に移すと、スパルタはアテネへの警戒を強め、両国の関係は悪化した。ペリクレスの治世下においてアテネはスパルタと30年の不戦協定を結んだものの、両者の緊張は次第に高まり、前431年、それぞれの同盟下のポリス間の利害も絡んで不戦協定の期間半ばにして遂に戦闘が始まる。以後27年もの長きにわたる不毛な消耗戦となるペロポネソス戦争の始まりであった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?