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連載日本史121 織豊政権(6)

秀吉の死後の豊臣政権は、彼の遺言に従い、幼少の秀頼を擁した五大老・五奉行の集団指導体制となったが、内部の対立関係は当初から明らかに見えていた。一方は五奉行の一人であり、秀吉の近江長浜城主の頃からの側近である石田三成を中心とした一派、もう一方は五大老の筆頭として、関東一円に強大な勢力を誇る徳川家康を中心とした一派である。

石田三成像(Wikipediaより)

家康は大名間の私的婚姻を禁じた秀吉の遺命に背き、伊達政宗や福島正則、黒田長政らの武将と秘密裏に縁組を進めて自らの地盤を固めようとした。これが発覚し、前田利家を中心とした他の大老たちや奉行たちから激しい非難を受け一触即発の事態に陥った。この時には決定的な衝突は回避されたが、まもなく利家が死去すると今度は家康派の加藤清正ら七将が三成邸を襲撃、翌年には利家の息子の前田利長、五奉行のひとりである浅野長政、秀頼・淀殿の側近である大野治長らによる家康暗殺計画が発覚、両派の対立は一気にヒートアップした。

直江兼続像(Wikipwdiaより)

1600年春、大老の上杉景勝と家康の関係が悪化し、上杉家家老の直江兼続が「直江状」と呼ばれる書面を出して家康を痛烈に批判した。景勝や兼続から見れば、家康は豊臣家に代わって天下人を狙う面従腹背の輩に見えていたのだろう。その後の展開を見ると、実際、その通りであったのだが・・・。

関ケ原合戦布陣図(senip.comより)

家康は景勝の領国である会津征伐を決意し東へ向かう。この機に三成は挙兵を決意した。毛利輝元を総大将として、宇喜多秀家、小西行長、島津義弘、大谷吉継らが、三成方の西軍についた。三成の挙兵を知った家康軍は反転して西進。東軍には、黒田長政、細川忠興、福島正則、井伊直政、山内一豊、池田輝政らが参集した。

9月15日、岐阜の関ヶ原で両軍は対峙した。集まった軍勢は、両軍合わせておよそ十七万。秀吉亡き後の覇権を巡る、天下分け目の決戦であった。
 




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