連載日本史123 桃山文化(1)

織豊政権時代には、華麗な桃山文化が花開いた。城郭建築では、白鷺城の異名を持つ白亜の姫路城をはじめ、松本城、犬山城、彦根城、二条城など、国宝級の城が次々と建てられた。「天空の城」として有名になった竹田城も、この時期に建てられたものである。時代の移り変わりを反映して、城の立地も、軍事色の強い山城から、政治・経済を重視した平山城・平城へと主流が移っていった。

竹田城跡(朝来市HPより)

寺院建築にも豪壮な造りのものが多く、西本願寺の飛雲閣や唐門・書院、大徳寺の唐門など、いずれも豪華な装飾に彩られた壮麗な雰囲気を今に伝えている。応仁の乱で荒れ果てたものの、秀吉によって豪華な庭園を伴って再興された醍醐寺では、秀吉の晩年に盛大な花見が催された。

醍醐寺の桜(京都観光Naviより)

茶の湯の流行に伴い、茶室や茶器の洗練が見られたのも、桃山文化の特徴である。千利休の作と伝えられる妙喜庵待庵は、同時代の華やかな城郭建築とは対照的に、装飾性を一切断った簡素な造りで、茶道における侘びの精神を体現している。茶室には躙(にじり)口と呼ばれる狭い入り口が設けられ、茶室を俗界から離れた聖なる空間として演出する仕掛けが施された。利休は秀吉と対立して切腹に追い込まれたが、彼が一種の芸術にまで高めた茶道の精神は後世に受け継がれ、現代の表千家・裏千家の源流となっている。

躙(にじり)口(kenchiku-shiken.comより)

ろくろを使わず手びねりで土の肌合いを残した利休の茶碗は楽茶碗と呼ばれ、朝鮮半島の高麗茶碗と共通した特徴を持つ。堺の豪商のひとりでもあった利休には、貿易を通じて、海外の文化にも深い造詣があったのだろう。また、秀吉の朝鮮侵略の際、日本に連行された朝鮮の陶工たちがもたらした技術によって唐津・有田・薩摩・萩などで焼物が発展したり、半島から活版印刷技術が導入されたりと、文禄・慶長の役の思わぬ副産物もあったようだ。

姫路城天守(Wikipediaより)

総じて桃山文化には、前代の東山文化に比べて壮麗で明るく、華やかな新しさが感じられる。その背景には、新興の大名や豪商たちの経済力があっただろうが、戦国乱世の終焉を感じ取った当時の人々の、新時代への期待も、そこに反映されているように思われる。姫路城の美しさは、平和な時代あってのものなのだ。
 





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