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連載日本史⑦ 邪馬台国(1)

紀元前221年、秦の始皇帝が中国に統一王朝を樹立した。秦はその苛烈な圧政によって反発を招き、始皇帝の死後数年で瓦解したが、その後に興った漢王朝は秦の築いた統治機構を巧妙に継承しながら前漢・後漢あわせて四百年の支配を続けた。紀元前二世紀半ばから七十年にわたって君臨した漢の武帝は周辺諸国を次々と征服し、衛氏朝鮮を滅ぼして半島に楽浪郡など四郡から成る直轄地を置いた。日本が侵略を免れたのは、海によって隔てられていたからに過ぎない。当時の日本列島は小国の乱立状態にあり、巨大な漢帝国から見れば、あえて海を渡ってまで征服しようとは思えない辺境の地だったのであろう。

2世紀末の世界(「世界の歴史まっぷ」より)

紀元前一世紀に書かれた「漢書」地理誌には、日本(倭)について、「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国となる。歳時を以て来たり、献見す」という記述があり、未だ統一の兆しも見えず、漢に朝貢する国があったことだけが記録に残っている。一世紀の「後漢書」東夷伝には「倭の奴国、貢を奉じて朝賀す」とあり、「奴国」という国名が初めて登場する。同書には光武帝が「漢委奴国王」の印綬を授けたとあり、実際に福岡の志賀島からその金印が出土した。とはいえ「奴国」も数ある小国のうちのひとつにすぎなかった。

「漢委奴国王」金印(福岡県志賀島出土)

二世紀になると、東夷伝には、「倭国大いに乱れ、こもごも相攻伐して歴年主なし」と書かれ、戦乱が続いて混乱の極みにあるようなイメージに描かれている。「なんだか面倒くさそうな国だから手を出さずにおこう」と思われていたのかもしれない。この時点においても内乱は続き、むしろ激化して手に負えなくなっているような印象を受ける。

後漢書「東夷伝」(国立国会図書館デジタルコレクション)

日本が統一に向かう兆しを見せるのは、三世紀に入って中国で漢王朝が滅び、魏・呉・蜀が並び立つ三国時代になってからである。「三国志」の中の「魏志」倭人伝に、長年の内乱を経て「邪馬台国」に女王が擁立された、との記述が出現する。女王の名は卑弥呼(ひみこ)。

三国時代の中国と日本(「世界の歴史まっぷ」より)

倭人伝には、当時の日本に存在した幾つかの国の名称が記されている。対馬・一支(壱岐)・末盧(佐賀県松浦)・伊都(福岡県糸島)・奴国(福岡)の所在地については諸説は一致しているが、そこから不弥国・投馬国・邪馬台国に至る段になると、諸説は大きく分かれる。三国の位置を並列にとると、邪馬台国は九州にあったことになる。直列にとると、邪馬台国の位置は大和(奈良)となる。弥生時代後期には、北九州を中心とした銅剣・銅矛文化圏と、近畿を中心とした銅鐸文化圏が存在したことは先に述べた。従ってどちらの説にも信憑性がある。九州説をとれば、邪馬台国は後に日本列島を手中に収めることになる大和政権と対峙した北九州諸国連合の盟主ということになる。近畿説をとれば、邪馬台国自体が大和政権の前身的存在ということになる。どちらの説も捨て難い。よってここでは、(a)九州説をとった場合、(b)近畿説をとった場合、それぞれについて物語を組み立ててみたいと思う。




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