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連載日本史⑤ 弥生時代

渡来系弥生人が日本列島にもたらした最大の手土産は、やはり水稲耕作の技術であろう。これにより、狩猟採集社会(獲得経済)は、農耕社会(生産経済)へと移行した。この食料生産革命は古代人の生活に大きな変化をもたらした。食料は計画的に生産・消費・保存するものとなり、それらを維持管理するための複雑な共同体秩序が必要となった。生産量の増大に伴う余剰穀物の増加は人口の急激な増加につながり、増えた人口を養うために、更なる耕作地の拡大と集落の巨大化が進行した。

吉野ヶ里遺跡(Wikipediaより)

弥生時代最大級の環濠集落である吉野ケ里遺跡からは、大型墳丘墓や甕棺の集団墓地、二階建ての建物や物見櫓の跡などが出土し、集落の巨大化と社会秩序の複雑化・階層化を示している。集落の内と外とは環状に掘った濠で隔てられ、外敵の侵入を防いでた。弥生時代後期の集落跡と見られる静岡の登呂遺跡からは、平地式住居や高床式倉庫、大規模な水田跡などが出土している。鍬や鋤などの木製農具も進化し、後期には鉄製の刃先を持つものも現れた。収穫のための石包丁、脱穀のための木臼や立杵など、耕作の諸段階に合わせた多様な農具が発達し、狩猟採集時代よりも緊密な連携作業や協調関係が求められるようになった。食料生産革命は、物質的な面だけでなく、人々の精神的・社会的な側面にも大きく作用したのである。

復元された水田と登呂遺跡(Wikipediaより)

農耕社会への移行は食料の増産と人口の急激な増加を促進し、集落の巨大化と社会秩序の複雑化・階層化をもたらしたが、それは同時に、集落間の、あるいは集落内部での、争い事の増加にもつながっていた。遺跡などから発掘される縄文時代の人骨と弥生時代の人骨を比べてみると、弥生期の人骨の方が、武器による外傷の跡が圧倒的に多いと言われる。それも相対的に生産力が高く、余剰農産物による富を多く蓄えていたはずの西日本地域の方に、戦争の形跡がより多く残っているそうだ。豊かになり、人口が増え、増えた人口を養うために集落を更に大きくし、富を蓄え、その豊かさを維持するために近隣の集落と戦い、耕地と富を収奪して更に支配地域を拡大する。その過程で犠牲になった人々も少なくなかったであろう。社会の発展は、必ずしも個人の幸福に一致するわけではない。しかし、だからと言って後戻りができるわけでもない。増えた人口を養っていくためには、生産力の拡大は必要不可欠だ。狩猟採集の時代に戻るわけにはいかないのだ。

殺傷痕のある弥生人骨(島根県立八雲立つ風土記の丘資料館)

日本で農耕社会への移行が急速に進みつつあった紀元前五世紀、当時の「先進国」であった中国は戦乱に明け暮れ、その中で老子は文明の急速な進歩の弊害を説き、「無為自然」「小国寡民」を唱えた。無論、当時でさえ、そんなことは不可能だった。既に人口は増えすぎていたのだ。現代でも事情は同じである。膨大な人口を養っていくという前提に立って、文明の進歩と折り合いをつけていくしかないのだ。

2020年、北海道白老町に開業したウポポイ(民族共生象徴空間)
国立アイヌ民族博物館・民族共生公園・慰霊施設を擁する

水稲耕作の技術は津軽海峡を渡らなかった。すなわち北海道には狩猟採集を主とした縄文文化が残ったのだ。アイヌの文化には、その名残が色濃く残っているという。もちろん北海道は、今や日本一の米の生産量を誇る耕作地域である。近世以降、土地の所有の感覚が薄いアイヌ民族は、本州から来た和人たちによって次第に追いやられた。1899年に北海道旧土人保護法が制定されたが、これはアイヌに対する同化政策を主眼としたもので、かえってアイヌ文化の解体を促進する結果になった。1997年になってアイヌ文化振興法が制定され、アイヌ独自の民俗文化の尊重が掲げられたが、やや遅きに失した感は否めない。今ではアイヌの文化はほとんど博物館や観光地でしか触れることのできないものになってしまったが、そこに古代の日本が持っていた、もうひとつの歴史の可能性を見出すこともできるのではなかろうか。





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