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オリエント・中東史③ ~エジプト文明~

メソポタミアでシュメール人の都市国家文明が栄えていた紀元前3000年頃、北アフリカのナイル川下流域で定期的な洪水を利用した農耕を営んでいた古代エジプト人の統一王朝が出現した。エジプトでの農耕の開始は前5000年紀頃とみられ、メソポタミアよりも遅かったものの、統一王朝成立はメソポタミアより早かったことになる。最初の王国は、それまでのノモスという小国家の分立を経て統合形成されたものであり、現在ではエジプト古王国と呼ばれている。古王国の時代には、灌漑農業の発達や青銅器の使用に加えて、表意文字であるヒエログリフ(神聖文字)の使用やピラミッドの建設など、エジプト独自の個性的な文明が発展した。

エジプトでは紀元前332年にマケドニアのアレクサンドロス大王の征服を受けるまでに31の王朝が交代したといわれるが、その中の第3王朝から第6王朝まで、すなわち紀元前2650年頃からの500年間が古王国の時代にあたる。古王国では太陽神ラーの神託を受けたとされる王(ファラオ)による神権政治が行われ、王の絶対的な権力の象徴としてのピラミッドが盛んに作られた。特に第4王朝のクフ王・カフラー王・メンカフラー王のピラミッドはギザの三大ピラミッドと呼ばれ、現代にもその威容をとどめている。古王国の首都はナイル川下流のメンフィスに置かれた。

エジプト古王国は地方豪族の自立などによって分裂するが、紀元前2040年頃にナイル川中流域のテーベを都として再統一される。これが後にいうエジプト中王国である。250年以上続いた中王国も前2000年紀にオリエント世界全域に及んだ大規模な民族移動の影響を受け、紀元前1650年頃にシリア方面からのアジア系民族ヒクソスの侵入を受けて滅亡する。騎馬と戦車という二大軍事技術を持ち込んだヒクソスは約1世紀の間エジプトを支配したが、第18王朝を創始したアアフメス1世に敗れて紀元前1542年にエジプトを追われ、後に滅亡した。ここからがエジプト新王国の時代となる。

新王国は前15世紀のトトメス3世の時代にメソポタミアのミタンニと戦い、ナイル川上流のクシュ王国を服属させて最盛期を迎えた。その後、前14世紀に王位に就いたアメンホテプ4世は、それまでの太陽神アメン=ラーを中心とした多神教を否定し、唯一絶対神のアトンを信仰する一神教を創出した。神の名のもとに、自らの神格化を絶対的なものにしようと企てたのだ。彼は首都を新たに建設したテル・エル・アマルナに移し、自らもアトン神の庇護を受けた者という意味であるイクナートンと改名した。イクナートンは信仰に基づく独自の美術表現を推奨し、それはアマルナ美術と呼ばれた。こうした一連の宗教・政治改革はアマルナ革命と呼ばれたが、伝統的なアメン神を信仰する神官をはじめとした旧勢力は強く反発した。結局、イクナートンの死後、次の王位に就いたツタンカーメン王によって改革は否定され、都は再びテーベに戻ったのである。性急すぎる改革が招いた混乱の末の結末であったと言えよう。

その後、新王国第19王朝の王となったラメセス2世は、北方の軍事大国であるヒッタイトと戦った末に平和条約を結んで勢力圏を確保し、首都テーベに有名なルクソール神殿、カルナック神殿を建設し、さらにナイル川上流にアブシンベル神殿を建造した。アブシンベル神殿は20世紀半ばのアスワン・ハイダムの建設によって水没の危機に瀕したため、ユネスコが世界各国に呼び掛けて崖ごと高台へ移築する大工事を行ったという。これが文化財保護の機運を呼び、世界遺産制度発足の契機となったそうだ。ヒエログリフが記されたロゼッタ・ストーンやギザのピラミッド群など、今も残るエジプト文明の残照は、現代の世界にも確かな光を投げかけているのである。。

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