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連載日本史233 日中戦争(1)

二・二六事件の後、最後の元勲である西園寺公望からの指名を受けて、広田弘毅が首相に就いた。ワシントン・ロンドン両条約が失効を迎えたこともあって、国際的にも軍拡競争が再燃していた。新たに定められた帝国国防方針と国策の基準では、対ソ戦を想定した北進論と、南方の資源獲得を目指す南進論が併記された。軍部大臣現役武官制も復活し、軍部の介入は更に増大した。国際連盟を脱退して孤立した日本は、ソ連の国際共産主義に対抗するために、同じ年にベルサイユ体制打破を唱えて連盟を脱退したドイツとの関係を深め、1936年に日独防共協定を結んだ。翌年にはイタリアも参加し、日独伊三国防共協定が成立した。続いてイタリアも国際連盟を脱退し、ここに日独伊の枢軸国陣営と英米仏の自由主義陣営、そして社会主義国のソ連と、三つの勢力に分かれた国際関係の構図ができあがった。

日独伊防共協定の成立を報じた新聞記事

自由主義諸国と枢軸国の対立は、持てる国と持たざる国の対立でもあった。世界恐慌以降、米国はフランクリン=ルーズベルト大統領の下でニューディール政策を推進し、公共事業に積極的に投資して雇用を増やすとともに、福祉政策を充実して国民の購買力を向上させて恐慌を乗り切った。英仏両国は連邦や植民地内でブロック経済圏を形成し、ブロック内の関税を下げたり廃止したりすることで域内貿易を活性化して恐慌に対応した。また、ソ連は一国社会主義を掲げるスターリンの下で独自の計画経済を進め、1934年には国際連盟にも加入して国際的地位を確立した。いずれも豊富な資源が基礎にあったからこそできたことである。結果として、そうしたブロックから締め出された日本やドイツは、進行する重工業化や軍備拡張のためにも、対外膨張による資源の獲得を求めざるを得ず、侵略行為に走ったという側面もある。

世界経済のブロック化(東京法令「世界史のミュージアム」より)

日本経済では軍需と政府の保護政策に支えられて重化学工業が発達しつつあった。鉄鋼業では官民合同の国策会社である日本製鉄が生まれ、自動車工業や化学工業では日産・日窒などの新興財閥が台頭し、満州や朝鮮へも進出した。また、窮乏が深刻化した農村では、農山漁村経済更生運動と称する自力更生運動が進められるとともに満州への移民が促進された。貧しい農村の青少年は満蒙開拓青少年義勇軍の募集に応じ、軍事訓練を受けて満州へ送られ開拓と対ソ防衛を担った。一方、対外膨張と軍拡は財政を圧迫し、満州事変前には一般会計支出の三割であった軍事費比率は、日中戦争勃発時の1937年には六割を超えている。

満蒙開拓青少年義勇軍募集のポスター(bantani-jichi.comより)

一方、中国では蒋介石率いる国民党と毛沢東率いる共産党の内戦が続いていたが、1936年に張学良が国民党首班の蒋介石を監禁し、共産党との戦闘を停止して抗日統一戦線を作ることを要求する西安事件が起こった。これが翌年の国共合作の実現につながり、中国は日本との長期戦に向けて態勢を整えていくのである。

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