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連載日本史60 院政(1)

日本史において、古代と中世の境界をどこに見出すかについては諸説ある。十二世紀末の鎌倉幕府成立以降を中世、それ以前を古代とするのが一般的な区分であったが、最近では、中世に特徴的な土地の収益構造に着目して、荘園公領制が確立する十一世紀後半の院政期を中世の始まりとする見方も定着しつつあるようだ。いずれにせよ、院政の開始が、日本史上の重要な分岐点であったことは間違いない。

荘園公領制(kenjiishida.jimdo.comより)

院政の前段階として、藤原摂関家を外戚としない後三条天皇による、延久の荘園整理令があった。藤原氏の強力な経済基盤であった各地の荘園を整理し、公領との区分を明確にする荘園公領制の成立は、権力を独占してきた藤原氏の力を削ぎ、土地の二元支配とともに、権力の二元構造を生み出す母胎となったのである。

院政関係系図(東京書籍「図説日本史」より)

1072年、後三条天皇の息子である白河天皇が十八歳で即位した。翌年、天皇は院蔵人所を設置し、院司を任命。これは国家の大事に関わる決裁権を、摂政・関白から奪い取ることを企図していた。1086年、三十代で息子の堀河天皇(当時八歳)に譲位した白河は「上皇」となり、本格的に院政を開始。皇位継承の決定権をはじめ、国政の重要事項に関するあらゆる決定権を掌握したのであった。

白河法皇建立の法勝寺復元模型(Wikipediaより)

「院」とは元来、上皇(出家すると法皇)の住居を示す言葉だったが、やがては上皇・法皇自身を指すようになった。白河院は院庁を通して院知行国や院領荘園を直接支配するとともに朝廷に向けてもしばしば院宣を発し、いわば天皇を操り人形として朝廷から詔勅・宣旨を出させ、公領を間接支配した。また、院の警護のために北面の武士を設置したが、これは強大化する僧兵の強訴(ごうそ)に備えるためでもあった。実際に武装した比叡山の僧兵たちが都に押しかけ、自らの要求を武力で通そうとした事件がしばしば起こっていたようで、白河院をして「鴨川の水、双六の賽、山法師は天下の三不如意(思いのままにならぬもの)」と言わしめた。逆に言えば、それ以外のことは全て院の思いのままになったということである。

白河法皇(Wikipediaより)

名目上の最高権力者というのは、実は結構不自由なものだ。責任ある地位を占めるがゆえの制約も多い。白河も自身が天皇になってみて、それを実感したのではなかろうか。だからこそ幼い息子に早々と譲位し、自らは自由な立場で国政を間接的に支配できる院政という政治形態を生み出したのだろう。白河上皇(法皇)の院政は、彼が七十七歳で死去するまで四十年以上も続く。その間、天皇は堀河・鳥羽・崇徳と代わっていったが、その皇位継承の全てに、白河院の意向が強く働いた。晩年まで強力な精力を保っていた白河院は、孫の鳥羽天皇の妻であった待賢門院(璋子)とも関係を持ち、鳥羽の息子の崇徳天皇は実は祖父の白河院の子だということは公然の秘密だったようだ。やりたい放題もいいところである。

院政のしくみ(東京書籍「図説日本史」より)

摂関政治が天皇の母方の外戚による統治であったのに対し、院政は天皇の父方の尊属である上皇による統治であった。いずれも間接支配であることには変わりないが、母系から父系への権力継承ルートの移行は、後世の武家政権にも受け継がれていく。これもまた、古代から中世への時代の変化を印象づける要素のひとつであるかもしれない。

院政において、上皇(法皇)は「治天(ちてん)の君」と呼ばれ、院宣による間接支配を受ける天皇は「東宮(皇太子)のごとし」と言われた。「実権はないが責任はある」という損な立場では、さっさと譲位して自分も上皇になりたいと思う天皇が次々と現れるのも無理はない。白河の後、鳥羽・崇徳・後白河と院政志向は続く。摂関政治では摂政・関白は少なくとも名目上は天皇の臣下であったが、院政ではそうした名目上の歯止めすらなかった。もちろん、こうした無責任体制は権力の暴走を生み、それはやがて権力そのものを自己崩壊させていくことになる。院政崩壊の原動力となったのは、皮肉にも院が自らを守るために雇い入れた北面の武士たちであった。





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