見出し画像

オリエント・中東史㉜ ~第一次世界大戦~

1914年6月、一発の銃声がボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボに響いた。パン・スラブ主義に基づく大セルビア主義を掲げるセルビア人青年が、閲兵中のオーストリア皇太子夫妻を暗殺したのだ。翌月、オーストリアはセルビアに宣戦布告。これに対し、セルビアとバルカン同盟を組んでいたモンテネグロ・ルーマニア・ギリシア、セルビアを支援していたロシア、そのロシアと三国協商を結んでいた英仏、さらに日英同盟を口実にアジアでの権益拡大を狙う日本までもが連合国として参戦。一方、オーストリアと同盟を組んでいたドイツに加えて、両国と関係を深めていたブルガリア、そしてロシアの南下を恐れるオスマン帝国も同盟国側で次々参戦し、バルカンの火薬庫から発火した業火は世界中に燃え広がったのだ。

主戦場となったのは欧州だったが、中東地域でも各地で戦闘があった。特に激戦となったのは、黒海から地中海へ抜ける要衝であるボスフォラス・ダーダネルス海峡を巡る攻防である。この時、英国の海軍大臣チャーチルの作戦による連合軍の上陸作戦を阻止したのが、後にトルコ共和国の初代大統領となるムスタファ・ケマルである。

戦闘で劣勢に立った英国は、オスマン帝国内の民族運動を利用して帝国の内部からの突き崩しを謀った。フセイン・マクマホン協定によって、アラビアの名家ハーシム家のフセインにアラブ民族の独立国家建設を約束して支援を取り付ける一方で、バルファア宣言によって、同じパレスチナの地にユダヤ民族の独立国家建設を約束してユダヤ人勢力からも援助を受け、さらにロシア・フランスと共謀して戦後の中東地域の分割を密約したサイクス・ピコ協定を締結したのである。俗に言うイギリスの三枚舌外交である。この相互に矛盾した、なりふり構わぬ御都合主義の戦時外交が、その後百年以上にわたって現代にまで続くパレスチナ問題の大惨事を引き起こしたのは周知の通りである。

飛行機や毒ガスなどの最新兵器を投入し、参戦国の国民すべてを巻き込む総力戦となった大戦は、インフルエンザの大流行も伴って、世界中に大惨事を引き起こした。長期にわたる戦闘によって莫大な被害を受けたロシアでは、帝政に対する国民の反感が爆発。1917年にロシア革命が勃発し、ニコライ2世は退位した後に殺害され、ロマノフ王朝は滅び、最終的にレーニン率いる共産党が政権を掌握する。革命政府はブレスト・リトフスク条約でドイツと単独講和。一方、ドイツの無制限潜水艦作戦で被害を受けたアメリカが連合国側で参戦し、戦局は大きく動いた。連合国軍優勢の中で、それでも戦争を継続したドイツでは、1918年に革命が勃発。皇帝ヴィルヘルム2世は追放されて帝政は終焉し、ヴァイマル共和国が成立して停戦協定が結ばれ、4年あまりにわたった大戦はようやく終結したのであった。

翌年に開かれたパリ講和会議の結果、ヴェルサイユ条約が結ばれ、第一次大戦後の国際秩序の基調となった。ヴェルサイユ体制では、集団的自衛権に基づく同盟関係による勢力均衡が戦争を抑止できなかった反省をふまえ、国際連盟を中心とした集団安全保障体制の構築が図られた。また、「民族自決」のスローガンのもとで、バルカン半島を含む東欧諸国は相次いで独立を達成したものの、アジアでの植民地支配はむしろ強化され、戦勝国の利害に基づくダブルスタンダードが顕在化した。そして中東では、オスマン帝国の崩壊とともに、石油利権を狙う列強による身勝手な分割が始まり、出口の見えない混迷の時代が続いていくことになるのである。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?