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連載日本史134 寛永文化
十七世紀前半、江戸時代初期の文化を元号にちなんで寛永文化と呼ぶ。桃山文化を継承した豪華な雰囲気を持ち、幕藩体制に順応した文化であった。学問では儒学の中でも特に秩序を重んじる朱子学が、幕府の施政方針に合致するものとして奨励された。藤原惺窩(せいか)は儒学を体系化し、弟子の林羅山は家康に仕え、上野に学問所を建設、江戸時代の朱子学の基礎を築いた。
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寛永文化の建築の代表格は、日光東照宮である。家康を東照大権現として祀った霊廟は、権現造と呼ばれる豪壮な様式で、徳川家の強大な力を象徴している。一方、京都では茶室風の軽快な建築様式である数寄屋造が流行し、桂離宮や修学院離宮などが造営された。信長に焼き討ちされた比叡山延暦寺の根本中堂も再建され、清水寺本堂もこの時期に建てられている。長崎には黄檗(おうばく)宗の寺院である崇福寺が建立された。
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黄檗宗は後に中国から隠元を招き、幕府・朝廷の信任を得て、宇治に万福寺を建立した。一方で、一種のアナーキズム(無政府主義)を唱える日蓮宗不受不施派は弾圧され、開祖の日奥は流罪となった。幕府創設期の寛永文化では体制への順応が必須条件だったのだ。
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寛永文化の絵画での代表格は俵野宗達の手による風神雷神図屏風であろう。躍動感あふれる筆致と大胆な構図で、風神・雷神それぞれのキャラクターを見事に描き切っている。狩野探幽による大徳寺方丈襖絵も、この時代の作品である。また、彦根藩に残る彦根屏風には京都の遊里が描かれ、三味線・双六・かぶき者・煙草・キセルなど、当時の風俗を伝える貴重な資料となっている。
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工芸の分野では、本阿弥光悦による舟橋蒔絵硯箱が、上品な味わいを今に伝えている。陶芸では、秀吉の朝鮮侵略の際に連行された朝鮮人陶工たちによる技術が更に広まり、西日本を中心として、各地にお国焼が生まれた。有田(伊万里)の酒井田柿右衛門が創始したといわれる上絵付の技法は、赤を基調とした色合いから、柿右衛門の赤絵と呼ばれ珍重された。
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文芸では、室町期の御伽草子の延長線上に仮名草子が発達し、庶民向けの物語や実用的な文章が増えた。俳諧では、松永貞徳が貞門俳諧の祖として多くの弟子を育て、後の俳句隆盛への道を開いた。 総じて寛永文化には、豪壮でありながらも、どこか落ち着いた雰囲気が感じられる。それは秩序の時代の空気を反映した文化でもあった。