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連載日本史236 第二次世界大戦(2)

近衛首相は米国との全面戦争を望んでいたわけではなかった。国内を戦時総動員体制でまとめながら交渉で譲歩を引き出そうとしたのだ。いわば瀬戸際外交である。1941年、日本はソ連と中立条約を結んで背後を固め、米国との本格的な交渉に臨んだ。米側の要求は日本軍の中国からの撤兵や蒋・汪政権の合併などであったが、松岡洋右外相の強硬姿勢に米側も態度を硬化させ、交渉は暗礁に乗り上げた。

太平洋戦争前の国際関係(「山川 詳説日本史図録」より)

同年六月、ドイツ軍が不可侵条約を破って突如ソ連に侵攻。これを受けて日本は、軍部の強い主張に押され、対米英戦を覚悟した南方進出と、情勢有利の場合のソ連攻撃を決定した。日本の更なる南進は米国を刺激し、アメリカは在米日本人の資産凍結や対日石油禁輸などの強硬策に出た。もはやチキンレースである。オランダ領インドネシアも対日石油禁輸と資産凍結で米国に歩調を合わせていた。軍部は、米英中蘭によるABCD包囲網を突破するには戦争に訴えるしかないと主張した。

東條英機(Wikipediaより)

近衛内閣は松岡外相を更迭して米国と再度の交渉に臨んだが妥協点が見出せず、交渉打切・日米開戦を主張する東条英機陸相と対立して総辞職した。東条内閣は日米交渉を継続しながらも開戦の準備を始め、米国もハル国務長官からの事実上の最後通牒であるハル=ノートによって、全てを満州事変以前の状態に戻す強硬な要求を日本に突きつけた。互いに開戦は避けられないと判断したのである。米国との開戦は英国との開戦をも意味し、それはすなわち、ドイツ・イタリアと組んで世界中を敵に回すことを意味していた。

真珠湾攻撃(WIkipediaより)

1941年12月8日、日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃するとともに、マレー半島に上陸し、アメリカ・イギリスに宣戦布告した。日本から米国への交渉打切通告が遅れたために、真珠湾攻撃は結果としてだまし討ちの汚名を受けることになり、米国では「リメンバー・パールハーバー」を合言葉として反日感情が燃え上がった。米国在住の10万人以上の日系人は強制収容所に移された。日本の宣戦とともに、三国同盟に従ってドイツ・イタリアも米国に宣戦布告し、ここに第二次大戦はヨーロッパからアジア・太平洋地域にまで拡大した。日米開戦が、第二次世界大戦を第一次大戦以上の全世界規模の戦争にしてしまったのだ。

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