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連載 スイスの歴史① ヘルヴェティア

僕は国語科の教員ですが、社会科と英語科の教員免許も持っています。特に歴史については、個人的に興味のある事柄を調べては細々と書き綴っています。しばらくお付き合いいただけると幸いです。

1993年から2000年までの7年間、仕事でスイスに住んでいました。
観光地として人気のスイスですが、生活者として暮らしてみて改めて「良いところだなぁ」と実感しました。

ヨーロッパの中心に位置しながら、ドイツやフランスなどに比べて、世界史のテキストでクローズアップされることの少ないスイス。しかし、地理的な重要性もさることながら、永世中立・EU非加盟という独自路線を貫くユニークな存在感を持った小国でもあります。そんなスイスの歴史を、12回にわたって、連載で語っていきたいと思います。
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陸続きのヨーロッパでは、国境を越えた車の往来も盛んなため、ドイツは"D"、フランスは"F"、イタリアは"I"、イギリスは"GB"(グレートブリテン)といった具合に、国名を略したアルファベットのステッカーが各々の車に貼られている。それではスイスは"S"なのかというと、そうではない。スイスの略号は"CH"なのだ。郵便コードや通貨の表示、ウェブのドメイン名などにも同じく"CH"の文字が見える。スイスのスの字も出てこない、この略称の意味は何なのか?

スイスの自動車用ステッカー

実は、スイスの国号としての正式名称は、ラテン語でConfoederatio Helveteca(ヘルヴェティア連邦)という。ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語の四つの公用語を持つスイスでは、どれかひとつの言語での名称を正式な国名として採用できないため、ラテン語を引っ張り出してきたらしい。地域主権の多言語国家としてのスイスの特質が非常によく表れたエピソードである。

それでは、この国号に登場するヘルヴェティアとは、いったい何なのだろう? それは遠く紀元前の昔、この地に住んでいたケルト系のヘルウェティイ族に由来する。ケルト系民族は現代ではイギリスやアイルランドとフランス北部の一部に居住するに過ぎないが、2000年前には全欧州にわたって分布していたのだ。

ヘルヴェティアの文字が記されたスイスの硬貨

当時のヨーロッパ文明の中心地は南欧のギリシャ・ローマであり、ギリシャ人やローマ人から見れば、アルプス以北は未開の地であった。青銅器時代から鉄器時代にかけて、中部ヨーロッパでハルシュタット文化(紀元前1200年~500年頃)、ラ・テーヌ文化(紀元前500年~200年頃)を発展させたケルト系民族たちは、東方からのゲルマン民族の圧迫を受けて徐々に西に移動し、紀元前1世紀に入ると更に南からのローマ帝国の支配を受ける。

ローマ人は、アルプス以北の北西ヨーロッパの地をガリアと呼んだ。ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)の「ガリア戦記」には、スイス西部に住んでいたヘルウェティイ族についての記述がある。紀元前58年、ローマの属州であったガリア・ナルボネンシス(現在の南仏プロヴァンス地方)への集団移住を試みたヘルウェティイ族は、属州総督のカエサルの軍に阻まれてスイスに戻った。紀元前15年にはスイス西部はローマ帝国の属州となり、ヘルウェティイ族の住む土地ということでヘルヴェティア属州と名付けられた。

ニヨンのローマ博物館(スイス政府観光局HPより)

ヘルヴェティア属州の中心都市はアウェンティクム(現在のアヴァンシュ)であった。他にもバーゼル近郊のアウグスタ・ラウリカ(現在のアウグスト)、レマン湖北岸のコロニア・ユリア・エクエストリス(現在のニヨン)などが重要都市として発展した。ニヨンには今もローマ時代の遺跡が残る。ライン川を北の防衛線としたローマ帝国にとって、山岳交通の要衝であるスイスの地は、対外戦略上も重要な拠点だったのである。(つづく)


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