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連載日本史⑯ 大和政権(2)

六世紀半ば、朝鮮半島の百済から、仏像と経論がヤマト政権に献上された。いわゆる仏教公伝である。これが政権の中枢にあった蘇我氏と物部氏の権力闘争に火をつけた。「政」を「まつりごと」と訓読するように、当時の政治は宗教と密接に結びついていたのだ。崇仏派として仏教を国家運営の柱にしていこうとする蘇我氏と、廃仏派として日本古来の神道を奉じて外来宗教を退けようとする物部氏。六世紀後半、蘇我馬子と物部守屋の対立は、激しい武力抗争へとエスカレートしていった。

仏教伝来ルート(「世界の歴史まっぷ」より)

物部氏の奉じた古代神道は、後世の国家神道とは異なり、地縁・血縁共同体の自然崇拝や祖先信仰に基づくものであったらしい。政治的にいえば、地方豪族たちの権力を保つ分権派である。一方、蘇我氏は仏教を梃子として権力を中央へ集中させていこうとする意図を持っていたと思われる。すなわち、物部氏と蘇我氏の抗争は、廃仏派と崇仏派の争いであると同時に、地方分権派と中央集権派の争いでもあったのだ。

物部氏と蘇我氏の対立の構図(altgolddesu's blogより)

なぜ蘇我氏は中央集権化を急いだのだろう? そこには対外的な要素が大きく関係していたと考えられる。六世紀の朝鮮半島では、新羅が勢力を伸ばし、562年には日本と関係の深かった伽耶を攻め滅ぼすに至った。中国では581年に隋が建国され、強大な軍事力で中国統一を成し遂げようとしていた。こうした国際情勢への危機感から、より強大な権力を持った中央集権国家の成立を急いだのではないかと推測されるのである。

隋の中国統一(「世界の歴史まっぷ」より)

外圧によって改革を急ぐのは、歴史の中で何度も繰り返された政治力学である。ただし、急激な改革は少なからず犠牲を伴うため、その反動も大きい。587年、蘇我馬子は厩戸王(聖徳太子)らとともに物部守屋を攻め滅ぼし、翌年、仏教信仰のシンボルとしての飛鳥寺造営を開始した。592年には崇峻天皇を暗殺し、推古天皇を即位させ、その摂政となった聖徳太子とともに、中央集権国家建設のための制度改革に乗り出す。緊迫する国際情勢の下で、地方豪族の寄り合い所帯であったヤマト政権が、日本という集権国家へと脱皮していくために、一連の改革は必要不可欠のものであったと言えよう。しかし、その強引な権力奪取のプロセスが、次代における更なる抗争へとつながっていくのである。




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