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オリエント・中東史㊼ ~アラブの春とシリア内戦~

2011年、チュニジアの首都チュニスで、腐敗した警察に対して一人の若者が抗議の焼身自殺を行った。この事件に端を発した民衆暴動がSNS等での呼びかけを通じて北アフリカから中東地域全体へと広がり、各国で独裁政権打倒を掲げる民主化運動が盛り上がった。いわゆる「アラブの春」である。チュニジアでは23年にわたって独裁権力を握っていたベン・アリ大統領が辞任に追い込まれ、エジプトでも1981年のサダト大統領暗殺後に大統領となって非常事態宣言を発し、31年もの長期にわたって強権政治を行ってきたムバラク政権が倒れた。リビアでは革命以来40年にわたる独裁政権を維持し、民衆の運動を武力で抑圧しようとしたカダフィ大佐がNATO(北大西洋条約機構)軍の介入を受けて殺害された。イエメンでも30年以上にわたる長期政権を維持してきたサレハ大統領が退陣に追い込まれた。

アラブの春における民主化運動の急速な広がりは、インターネットを通じたリアルタイムでの情報共有や国境を越えた人々の連帯意識も一因だが、何よりも民衆の多くが長期政権の腐敗に対して鬱屈した不満を抱えていたというのが各国に共通した要因であろう。長期にわたる独裁権力は、必ずと言っていいほど腐敗する。それに対してNOの声を明確に示した民衆の底力は素晴らしいが、その後の展開は国によって随分と異なるものになった。すなわち独裁権力を打倒した後の秩序ある統治を担うだけの力が十分に育っていないケースが少なからず見られたということだ。

アラブの春の発端となったチュニジアのジャスミン革命では、ベン・アリ政権打倒後、イスラム政党ナハダが選挙で第一党となったが、経済政策に失敗して過激派の台頭を招き、2014年の総選挙では世俗派政党ニダチュニスが第一党となって経済再建にあたっている。エジプトでも民主化の過程でムスリム同胞団が支持を集める一方、それに反発する声も強くなり、軍が政治介入するなど、不安定な情勢が続いた。それでもまだ、独自の民主化への道を手探りで模索する両国は、新たな秩序を築きつつあるように見える。一方、長年の独裁政治によって自治の精神を失ったリビアや、独裁政権の抑圧がなくなったことで宗教対立が激化して、北部フーシ派(シーア派の一派)・政権派・南部分離派の三つ巴の内戦に陥ったイエメンでは、国家そのものが存続の危機を迎えている。独裁政治はいつかは廃されるべきものではあるが、そのタイミングを誤るとかえって多くの人々を不幸に陥れることもあり得るのだ。難しい問題である。

アラブの春以後、最も混迷を深めたのはシリアである。1970年代以降、父子二代にわたって大統領職を「世襲」して独裁政治を行ってきたアサド政権に対し、2011年のアラブの春の影響を受けて大規模な反体制運動が起こった。アサド政権はシーア派に近いアラウィ派政権であり、宗教的にはシリア国民の13%にしか過ぎない少数派に属する。それが多数派のスンニ派を長期にわたって抑圧してきたわけであって、当初はチュニジアやエジプト同様、独裁政権の崩壊は必至と思われた。しかし、反政府勢力の中には国軍の一部が分離して民衆運動に加わった自由シリア軍や原理主義勢力も加わって統制がとれず、欧米諸国は反政府勢力を支持したものの足並みが揃わず、一方でアサド政権と経済的関係の深いロシアや中国、さらにシーア派のイランも政権側を支援したので、両者の勢力は拮抗し、内戦が長期に及ぶこととなった。

2012年には北部最大の都市アレッポでの激戦に巻き込まれて日本人ジャーナリストの山本美香氏が命を落とし、政府軍の化学兵器使用の疑惑もあって国際社会からの非難も高まったが、戦闘はますます激しさを増し、世界遺産の街アレッポは度重なる爆撃で瓦礫と化した。内戦の長期化によって累計400万人にも及ぶシリア難民が生まれ、その多くは隣国のトルコやヨルダン、レバノン、さらにはヨーロッパ各国へと流れ込み、EU(欧州連合)各国に難民問題を巡る軋轢をもたらした。そんな中で、さらに問題を複雑にしたのが、IS(イスラム国)の台頭である。

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