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オリエント・中東史㊺ ~イラク戦争~

湾岸戦争から10年を経た2001年9月、衝撃的なニュースが流れた。米国同時多発テロである。4機の旅客機をハイジャックしたイスラム過激派がニューヨークの世界貿易センタービルやワシントンの国防総省に突入した。2棟の高層ビルは崩壊し、旅客機の乗客も含めて死者の総計が3,000名を超える大惨事となった。米国は国際テロ組織アルカイダのオサマ・ビンラディンをテロの首謀者と断定し、ブッシュ大統領は「対テロ戦争」を宣言した。同年10月、ビンラディンの引き渡しを拒んだタリバンが支配するアフガニスタンに侵攻した米国は、さらに一歩踏み込んで米国防衛のための予防措置と先制攻撃の必要性を唱え、大量破壊兵器を隠し持っているという疑惑を開戦理由として、イラク侵攻へと突き進んだのである。

2003年3月、米国・英国を中心とした有志連合軍は、フランス・ドイツ・ロシア・中国等の反対を押し切り、国連決議が得られないままに、イラクへの武力攻撃に踏み切った。有志連合軍は圧倒的な軍事力で短期間にイラクの各都市を制圧し、5月には「大規模戦闘終結宣言」が出され、フセイン政権は崩壊した。しかし、独裁政権の崩壊により、宗派間の対立や反米武装勢力のゲリラ活動等はかえって激化し、イラク国内の治安は急激に悪化した。2006年には米国の支援を受けて新政府が正式に発足し、同年末にはフセイン前大統領が処刑されたが、乱立する武装勢力による銃撃や爆弾テロ、拉致や暗殺などが頻繁に起こり、米軍の駐留は長期化した。この時期に組織された過激派組織「イラクのイスラム国」が、後のIS(イスラム国)の前身となる。戦争とテロの連鎖が、ここでもまた繰り返されたわけだ。結局、米軍のイラク撤退完了は2011年12月、開戦から8年以上の年月を要して、イラク戦争は一応の終結をみたのである。

イラク戦争は、中東のみならず、世界中に深い傷跡を残した。混乱の極から生まれた過激派組織ISは隣国のシリアにも勢力を伸ばし、さらに各国の過激派組織と連携しながら国際的な同時多発テロを拡大していく。中東の混乱は多くの難民を生み、トルコやギリシャ、地中海などを経由して、多くの難民がヨーロッパへと流れこんだ。国際移住期間の統計によれば、不法にEU国境を越えた難民は2014年の1年間だけで28万名以上に及び、そのうち3,000名以上が地中海を越える過程で死亡または行方不明となっている。難民の急激な増加への対応はEU諸国間の軋轢を生み、英国のEU離脱の一因ともなった。

戦争における犠牲者の数は統計によって異なるため正確にはわからないが、少なくともイラク軍5,000名以上、有志連合軍4,800名以上、イラク国内の民間人の死者数は116,000名以上に達すると推定されている。もちろん負傷者数はこの数倍に上るはずである。米国のイラク帰還兵の間には心の病が広まり、米国退役軍人省の統計によるとイラクとアフガニスタンの帰還兵260万人のうち5人に1人がPTSD(精神的外傷後ストレス傷害)を患ったことがあるという。帰還兵の自殺者は既に戦闘での米軍の死亡者数をはるかに上回り、帰還兵が関わったとみられる殺人事件も120件を超える。戦争は、勝利を収めた側にも、甚大かつ不可逆的な損傷をもたらしたのである。

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