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バルカン半島史㉘ ~東欧革命~

1989年のベルリンの壁崩壊に象徴される社会主義陣営解体の波はバルカン諸国にも及んだ。親ソ路線に徹して35年の長期独裁を保ってきたジフコフ政権下のブルガリアではソ連同様に経済の停滞が深刻化し、困窮した生活を強いられる国民の不満は頂点に達していた。その不満を背景に、ベルリンの壁崩壊のまさに翌日、ソ連のゴルバチョフ書記長の支持を得たムラデノフ外相がジフコフを辞任に追い込み、電光石火の無血クーデターを成功させたのである。翌年には初の自由選挙が実施され、その後は社会党(旧共産党)と民主派が交互に政権を担当しながら市場経済化を図った。

ブルガリア以上に世界に衝撃を与えたのは、チャウシェスク独裁政権を打倒し、大統領夫妻を処刑したルーマニア革命である。60年代にソ連と袂を分かち、独自の社会主義路線を歩んだルーマニアでは、チャウシェスク大統領が20年以上にわたって独裁権力を握り、個人崇拝を強要し、露骨な同族支配を強めていた。国民の生活は困窮し、国土は荒れ果てていたが、大統領一族を中心とした少数の特権階級だけは、豪邸に住んで贅の限りを尽くした生活を続けていたのだ。ブルガリアでのクーデターの翌月、ルーマニア北部のティミショアラで起こった反政府デモは瞬く間に拡大し、首都ブカレストでは以前の支持者たちからもチャウシェスク打倒の声が上がり、鎮圧命令を受けた軍までもが大統領に反旗を翻した。国外脱出に失敗したチャウシェスク夫妻は軍事裁判で死刑宣告を受け、その日のうちに銃殺された。その映像は世界各国に流出し、凄惨な処刑現場に横たわる独裁者の末路を何千万もの人々が目にすることとなったのである。

独自の鎖国体制をとっていたアルバニアにも変革の波は訪れた。1990年、アリア政権は経済と宗教の自由化・海外旅行の制限撤廃・複数政党制・自由選挙の導入など、一連の開放改革政策に着手。「ヨーロッパで最も貧しい国」と呼ばれた貧困状況からの脱却を図った。だが、長年の鎖国体制から急激な市場経済体制への移行は国民生活に混乱をもたらし、食糧の略奪や難民の流出、ネズミ講による巨大な被害などの問題が相次いで起こった。

冷戦終結の影響は東側諸国のみならず、西側陣営の一員であったギリシャにも及んだ。60年代のクーデターで軍部が政権を握ったギリシャでは、75年に軍政打倒と王政廃止が実現し、新生ギリシャ共和国として81年にはEC(欧州共同体)加盟を果たした。しかし冷戦終結によって周辺諸国との均衡関係が崩れ、隣国トルコとの領土問題が再燃。ユーゴスラヴィアから独立したマケドニアとも対立を深めることとなった。

故・米原万里氏の連作エッセイ「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」では、60年代にチェコスロバキアの首都プラハのソビエト学校で、筆者とともに多感な少女時代を過ごした三人の旧友との、30年後の再会が語られる。亡命ギリシャ人の娘だったリッツァは、ギリシャの青い空に憧憬を抱きながらも、ドイツで医師としてのキャリアを築く。ルーマニアの特権階級に属しながらそれを認めようとせず、母国の現実から目を背けて自ら作り上げた嘘の世界を信じ込んでいたアーニャは革命後の母国に戻ることなくロンドンで暮らす。思春期の彼女たちの友情には、いつも母国の不安定な政情が影を落としていたのだ。そしてもうひとり、筆者の親友であったヤスミンカの母国ユーゴスラヴィアは、冷戦崩壊を契機としてバルカン半島最大の悲劇に見舞われることになるのである。

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