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連載中国史34 宋(4)

外交面では数々の失策を重ねた宋であったが、経済と文化の面では大きな発展を見せた。農業では江南地方の開発が進み、日照りに強い占城稲の導入や二毛作・二期作も行われ、耕地面積が飛躍的に拡大した。長江下流域の湿地では、水路(クリーク)を整備して造成した囲田(いでん)などの農業土木技術も開発されている。農業生産量は飛躍的に向上し、「蘇湖(江浙)熟すれば天下足る」とまで言われた。江南の生産量だけで中国全土の食糧がまかなえるという意味である。

世界初の紙幣とされる北宋の交子(Wikipediaより)

貨幣経済は宋代に広く定着した。高熱を発するコークス(加工石炭)の使用によって鉄や銅の鋳造量は増大したものの、銅銭の流通拡大や周辺諸国への流出もあって硬貨は慢性的に不足するようにんった。そこで誕生したのが紙幣である。唐代には飛銭と呼ばれる為替手形が既に流通していたが、それが北宋で交子、金で交鈔、南宋で会子と名を変え、紙幣として一般に流通するようになった。中国では製紙法や印刷技術が早くに発達していたことも、紙幣誕生の背景のひとつと考えられる。硬貨・紙幣を含めた貨幣供給量の増大は、市場の更なる拡大をもたらした。唐代には「市」に限定されていた商業活動も、宋代には都市のどこでも可能となり、夜間の営業も盛んになった。張択端の「清明上河図」には北宋の首都であった開封の賑わいが描かれ、南宋の首都となった臨安(杭州)は、マルコ・ポーロの「世界の記述(東方見聞録)」の中で「世界第一の富裕都市」として紹介されている。

清明上河図(nikkan-gendai.comより)

燃料としてのコークスの普及により、強力な火力での調理が可能となり、多彩な中華料理が生まれた。喫茶の習慣の広がりもあって陶磁器の生産も盛んとなり、景徳鎮や磁州では青磁や白磁が作られた。活字印刷や羅針盤、火薬が発明されたのも宋代である。儒学の世界では周敦頤が宇宙生成の原理を説いた「太極図説」を著して宋学を創始し、南宋時代に朱熹(朱子)がそれを大成して朱子学とした。これは教書の語句の解釈にとどまっていた前代の訓詁学を批判し、儒学の原点に立ち返りながら、宇宙論や世界観にまで哲学的考察を広げたものである。大義名分や縦の秩序を重んじる朱子学は、中国の士大夫層のみならず、朝鮮や日本の指導者層にも広く受け入れられ、周辺諸国にも大きな影響を与えた。

朱熹(Wikipediaより)

美術では徽宗らに代表される極彩・華麗な院体画(北宗画)と、淡彩・水墨を旨とする文人画(南宗画)が生まれ、文学では唐代の韓愈・柳宗元の古文復興運動を受けて、欧陽脩・蘇軾(蘇東坡)・王安石ら、唐宋八大家が活躍した。また、定型が主流であった唐詩に対し、宋代には旋律をつけて歌う非定型の宋詞が流行し、抒情色が強くなった。宗教では、士大夫層に禅宗、庶民層に浄土宗が広まり、華北の金では道教の一派である全真教が生まれた。禅宗や浄土宗が日本の仏教界に与えた影響は計り知れない。宋は政治的には唐に比べて内向きであったが、経済や文化の面では、強い発信力を持っていたのである。

文人画(Wikipediaより)

政治二流、経済・文化一流。これも現代の日本で時々耳にするフレーズである。(経済の方は最近いささか怪しいが…。) それでも宋は、多くの領土を失いながらも、北宋・南宋あわせて三百年以上の命脈を保った。これは実は唐の治世よりも若干長い期間なのだ。歴史の授業では政治史が主として語られることが多く、経済史や文化史は二の次になりがちなのだが、生活を支える経済と精神を支える文化が健在であれば、政治の方は多少いい加減でも何とかなるということなのだろうか。だからと言って、現在の日本の政治がこのままでいいというわけではないが…。

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