見出し画像

連載日本史175 戊辰戦争(3)

江戸城無血開城の方向性が決した1868年3月14日、五箇条の誓文が発表された。これは新政府の基本方針を天皇の神誓という形で示したもので、由利公正が起草し、福岡孝弟・木戸孝允が修正を入れた。「広ク会議ヲ起コシ、万機公論ニ決スベシ」を第一条とする誓文は公議世論の尊重という理念に基づいていた。しかしながら、翌日に一般民衆向けに掲げられた五榜の掲示は旧幕府の儒教道徳をに基づく民衆政策を引き継ぎ、キリスト教の禁止も盛り込まれていた。新政府は、指導者層と一般民衆で理念を使い分けていた。典型的なダブル・スタンダードである。

五箇条の御誓文と五榜の掲示(日本史ゴロゴロ on twitterより)

続いて公布された政体書では、中央政府の太政官に権限を集中し、その中で立法・行政・司法の三権分立を図る新たな官制が示された。江戸は東京と改称され、天皇が今後は東京で政務を執ることが宣言された。事実上の東京遷都である。徳川家は駿府へ移り、慶喜は謹慎生活に入った。

佐野石峰「白虎隊自刃の図」

北へと戦場を移して、戊辰戦争は続く。白河城を巡る攻防では、百日にも及ぶ激しい戦闘の末、新政府軍が勝利を収めた。これが東北戦線の天王山となった。越後長岡藩では河井継之助の指導の下で独立特行を図ったが、新政府軍の攻撃によって長岡城が陥落。福島の二本松藩でも激しい抵抗の末に二本松城が落城し、官軍は会津藩の本丸である会津若松城に迫った。二本松でも会津若松でも戦力不足を補うために少年兵が動員され、多くが戦死や自刃で非業の死を遂げた。若松城では新政府軍からの容赦ない砲撃にさらされながらも一ヶ月にわたる籠城を続けた会津軍がとうとう降伏。旧幕府勢力の中心的存在として最後まで新政府軍から目の敵にされた会津藩は、ここに滅亡したのである。

会津藩降伏式(会津若松観光ナビより)

2013年のNHK大河ドラマの主人公となった新島八重は、会津戦争の際、男装して若松城の籠城戦に加わり、スペンサー銃を持って戦ったという。生き残った彼女は後に新島襄と結婚し、教育者として襄とともに同志社大学の設立に尽力する。襄の死後は看護婦となり、日清戦争にも従軍して負傷者の看護に活躍した。戊辰戦争で犠牲になった白虎隊や二本松少年隊にも、生きていれば後世に活躍できたはずの若者たちがいたことだろう。そう考えると、江戸城で実現した無血開城が、東北ではなぜできなかったのか、残念に思われてならないのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?