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ローマ・イタリア史⑱ ~十字軍~

1095年、西方からのイスラム勢力の脅威にさらされていたビザンツ帝国皇帝からローマ教会に支援の要請が届いた。ローマ教皇ウルバヌス2世はローマ教会の勢力を西に伸ばすための好機であるととらえ、クレルモン公会議で十字軍の派遣を宣言する。聖地エルサレムの奪回を掲げた十字軍であったが、その内実は教会や諸侯や都市の商人たちなど、さまざまな立場からの利害が錯綜する仁義なき軍事行動であった。十字軍の派遣は主要なものだけでも7回を数え、不純な動機と身勝手な大義名分を両輪とし、人々の欲望を駆動力として、200年にもわたって続いたのだ。

ローマ教皇の呼びかけとはいえ、十字軍の主力は当時分裂状態であったイタリアではなく、神聖ローマ帝国(ドイツ)・フランス・イギリスなどの強国であった。特に1189年の第3回十字軍は、英国のリチャード獅子心王・ドイツのフリードリッヒ赤ひげ帝(バルバロッサ)・フランスのフィリップ尊厳王(オーギュスト)が揃った大規模なものであったが、イスラムの英雄サラディンに阻まれ、巡礼者の安全は確保されたものの、聖地奪回はならなかった。度重なる軍事行動は諸侯の力を削ぎ、その分だけ相対的にローマ教皇の影響力は増大した。結果的には教皇の思惑通りとなったわけである。

十字軍の経済的な旨みに乗じた北イタリアの都市国家、特に貿易商人の都であったベネチアが参加した第4回十字軍は、大義名分をかなぐり捨てた利益第一の姿を露わにした。エルサレムには見向きもせず、ビザンチン帝国の首都であるコンスタンティノープルを占領したのだ。東西貿易の要地を手に入れたいというベネチア商人たちの要請によるものであった。さすがにこれには激怒した教皇インノケンティウス3世は十字軍を破門したが、占領地に十字軍によるラテン帝国が建設されると、そこから得られる経済的利益と教皇権力の更なる伸張を求めて破門を解き、十字軍を祝福してコンスタンティノープルの東方正教会の財産を没収した。ここにローマカトリック教会と東方正教会の対立は決定的なものとなり、将来にわたって分裂は修復不可能となったのである。

13世紀末、最後の十字軍が失敗に終わり、ヨーロッパのキリスト教世界と西アジアのイスラム世界は棲み分けの時代に入る。北イタリアの諸都市は東西貿易の拡張によって大きな経済的利益を得た。文化面ではイスラムの先進文化がヨーロッパに流入し、イスラム圏で保存されていた古代ギリシャ・ローマの文化がヨーロッパに逆輸入されたことが、次代のルネサンスへの布石となった。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の聖地が重なるエルサレムが現代においてもなお宗教的対立の発火点となっているのは周知の通りである。不純な動機と身勝手な大義名分の組み合わせが歴史を動かし、将来にわたる禍根をも残したのだ。

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