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連載日本史91 建武の新政(1)

1333年、京都に戻った後醍醐天皇は、光厳天皇を廃位し、幕府・摂政・関白を廃止し、自身に強大な権力を集中させる天皇親政を行った。いわゆる建武の新政である。彼が理想としたのは、十世紀平安朝の延喜・天暦の治、すなわち醍醐・村上天皇の治世であった。そういう意味では、「新政」というよりは「復古政治」と呼んだ方がいいかもしれない。彼は「綸旨」と呼ばれる天皇からの直接の命令書を次々と発給したが、そのほとんどが、旧勢力である貴族や寺社を優遇するものであった。つまり「新政」は明らかに、時代の流れに逆行していたのである。

建武の新政組織図(uicc1070.main.jpより)

天皇は、中央の政治組織においては、政務を司る記録所、恩賞事務を司る恩賞方、裁判を担当する雑訴決断所、軍事を担当する武者所を置いたが、重要ポストは多くが公家で占められ、武家は楠木・名和・新田など、幕府打倒に功績のあった一部に限られた。一方、地方の統治機構は鎌倉幕府の官僚組織をほぼ継承し、関東には鎌倉将軍府、東北には陸奥将軍府が置かれ、諸国には国司・守護が併置された。中央を公家・貴族で固め、地方の管理を武家に委ねるという発想だったのだろうが、当然のことながら武士たちの反発を招いた。

後醍醐天皇(Wikipediaより)

最も反発が大きかったのは、土地に関する施策である。天皇自身の綸旨による所領安堵法は貴族・寺社の所領していた旧領回復が前提であり、武士たちが実効支配していた土地を返還せよとの命令であって、一定期間を過ぎれば実効支配が優先するとした御成敗式目とも矛盾する内容でもあったたため、武士たちは猛反発し、土地を巡る訴訟はやまなかった。また、幕府打倒の恩賞についても、貴族・寺社や一部の武士のみを優遇したため、不公平感が募った。更に天皇が打ち出した大内裏の造営計画は、新たな負担を強いるものとして、武士たちの反感を買うことになった。しかし、天皇親政という大義名分を掲げた後醍醐天皇は、自らが発給した綸旨の絶対性を貫こうとし、各方面からの抗議を聞き入れようとしなかったので、当初は天皇を支持していた武士たちも、次第に政権と距離を置くようになっていく。

伝足利尊氏像(Wikipediaより)

倒幕の功労者のひとりである足利尊氏は建武政権には加わらず、武士たちの軍功に対して独自の保障を示し新政に不満を持つ人々の支持を集めていた。このあたりの事情は、かつて後三年の役で私財を投じて武士たちの軍功に報いて関東に支持を広げた源義家に通じるものがある。人は結局のところ、身銭を切って身体を張るリーダーについていくものなのだろう。戦場で命を懸けて働く武士なら尚更のことだ。後醍醐天皇の「大義」と、武士たちの「大義」は、最初からズレていたのである。




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