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連載日本史59 武士の台頭(2)

1051年、奥六郡(岩手県内陸部)において、前九年の役が起こった。東北に勢力を持つ安倍頼時・貞任父子を中心とした武士団が納税を拒否して国衙と対立したのが発端である。朝廷は、関東で急速に勢力を伸ばしていた源頼義に安倍氏追討の命を下した。

大江山絵巻・頼光の鬼退治(Wikipediaより)

頼義の父の頼信は、1028年の房総半島における平忠常の乱を平定し、河内源氏の初代棟粱となった男である。「棟粱」という呼称からもうかがえるように、武士の家長は一族の大黒柱として圧倒的な存在感を持っていた。頼信・頼義父子の武勇は傑出しており、「今昔物語集」には、夜中に忍び込んできた馬盗人を無言のままに追跡・射殺し、何事もなかったかのように朝を迎える、怖いほどに息の合った父子の姿が活写されている。頼信の兄の頼光も武勇に優れ、金太郎伝説で有名な坂田公時(きんとき)を含む頼光四天王とともに、酒呑童子討伐や土蜘蛛退治などの逸話が残る。頼義の息子の義家は当代きっての弓の名手であった。つまり、武士の中でも特に源氏一族は、武芸の家として周囲から一目置かれていたのである。

11世紀当時の東北情勢(touken-world.jpより)

とはいえ、その頼義をもってしても前九年の役の平定は容易ではなかった。最終的には出羽の豪族の清原氏の力を借りて頼義は安倍氏を制圧する。二十年後には、その清原一族の内紛によって後三年の役が勃発、最終的には清衡(きよひら)・家衡(いえひら)の異父兄弟の争いとなった。今度は頼義の息子の源義家が介入し、清衡を支援して乱を終結させた。最後の激戦地となった金沢柵には、空を飛ぶ雁の列の乱れを見て敵の伏兵を見破った義家の逸話が残る。義家の支援を受けて勝利を収めた清衡は、父方の藤原姓を名乗り、後の奥州藤原氏の祖となった。

後三年の役関係図(touken-world.jpより)

前九年の役・後三年の役を通して見えてくるのは、関東・東北地方を中心とした武士階級の急成長と、それに対する中央政府の無関心である。特に後三年の役では、朝廷はこれを単なる私闘として、乱を鎮圧した武士たちに何の褒賞も与えなかった。結局、義家が私財を投じて褒賞を与えることになったのだが、これが結果として東国における源氏の名声を高め、後の鎌倉幕府成立の一因となっていくのだから皮肉なものである。

前九年の役・後三年の役が起こった十一世紀は、摂関政治の全盛期である。貴族たちは地方での汚れ仕事を武士に丸投げして、都で我が世の春を謳歌していたわけだ。貴族が武士に政治の主導権を奪われていく過程を眺めていると、汗水垂らす仕事を次々とアウトソーシングしていった挙句、下請け企業に本社を乗っ取られていく会社を見ているように感じられる。ハードワークを丸投げした無責任な経営のツケは、結局は自分に返ってくるのである。



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