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石垣りんと戦後民主主義①

2023年の詩人会議新人賞佳作を受賞した「石垣りんと戦後民主主義」を再掲します。来年は戦後80年。世界中で戦火の絶えない今、改めて日本の戦後の歩みを石垣りんの詩とともに振り返ってみたいと思います。
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敗戦を告げる玉音放送が真夏の焦土に流れたとき、石垣りんは25才。事務見習いとして高等小学校卒で就職した日本興業銀行での生活も10年を超えていた。戦前から戦後にかけての価値観の急転回を、20代の多感な時期に体感した彼女の世代は、戦後民主主義の第一世代として、新たな社会の担い手となってゆく。

小学校時代から詩作に耽り、就職後も仕事の合間を縫って雑誌に投稿を重ねていた彼女の詩業も、時代の激変を受けて、鮮明な色合いを見せ始める。職場の機関誌や壁新聞に掲げられた詩の数々。時代の文脈の中で息づく言葉たち。1950年代末の第一詩集「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」、60年代末の第二詩集「表札など」、70年代末の第三詩集「略歴」、80年代末の第四詩集「やさしい言葉」に至るまで、彼女の詩作の歩みはそのまま戦後民主主義の足跡と重なり合っていると言えよう。

だが、そもそも戦後民主主義とは何かと問われれば、その定義を一義的に確定させるのは至難の業である。戦後80年近くを経て、戦争を実体験に持つ世代が次々と退きつつある今、戦後生まれの我々、いわば戦後民主主義の第二世代が中心となって、戦後民主主義とは何だったのか、それはどのような生い立ちを辿り、どのように変質してきたのかを考察することは、次の時代に向けて是非とも必要なことだと考える。そして、その貴重な手掛かりとなるのが、石垣りんによって紡がれてきた珠玉の詩の数々なのだ。

本論の主旨は、石垣りんの詩を通して戦後民主主義とは何かを考察することにあるが、そこから敷衍して、「詩の社会性」、さらに「社会の詩性」という双方向のベクトルにまで論考を広げたい。詩について考えることが社会について考えることにつながり、社会について考えることが詩について考えることにつながるのは、特定の時代に限った話ではないのかもしれないが、敗戦という明確な線引きで始点が確定できる「戦後」という時代は、そうした考察を進める上で最適な前提条件を与えてくれると思うからだ。

1963年生まれの筆者にとって先行世代の石垣りんの詩は常に前方にあった。それがいつのまにか、後方を振り返るよすがとして意識されるような年回りになってしまった。ここらで自分の生きてきた時代のバックボーンとなっていた戦後民主主義とは何かを自分なりに考えてみたいというのは個人的な動機に根ざしたものではあるが、それが同世代にとっても、あるいは後に続く戦後民主主義の第三世代にとっても、普遍的かつ切実な問いであることを信じて、この論考を始めることとする。

石垣りんは1920年(大正9年)に東京で生まれた。2年後に弟、4年後に妹が生まれるが、1923年の関東大震災で負傷した生母が死去し、以後、父の再婚と離婚、継母の死去が相次いだため、18歳までに3人の義母と異母弟妹を持つこととなった。1934年に高等小学校卒で日本興業銀行に事務見習いとして就職したりんは、一家の生計を支えながら、定年退職に至るまで40年以上にわたって、銀行員としての生活を送ることになる。

高等小学校時代から自作の詩を雑誌に投稿していたりんは、銀行員の仕事の合間を縫って詩作に勤しみ、民衆詩人の一派であった福田正夫の指導の下で、女性のみの同人誌「断層」を創刊する。福田も含めて当時の文学者の多くが手を染めた戦意高揚文学の一端に、りんもまた加わる結果となった。戦時中、兵士への慰問袋に入れる詩を求められてりんが作った詩が、後に彼女自身の記憶を辿って再現されている。
 
ひかり弾丸と降れば/一兵の意志もて顔を上げよ
風に透明な血潮を流し/匂い絶つ日にも
進路そこに展けて/遠いラッパをきく。
花よ、空を突け/美しき力もて。 (「花」)
 
「軍国少女」であったという彼女の述懐は、戦争を体験した当事者の多くの証言に見られるように、悔恨の情をもって語られている。同じ「花」をモチーフとしながらも、戦後まもなく作られた「花のことば」は、戦時中の詩とは好対照をなし、敗戦を境にした意識の「断層」を読み取ることができる。それは彼女のみならず、戦争をリアルな実感として原体験に持つ戦後民主主義第一世代の人々に共通する「断層」であった。
 
昔々 立身出世という言葉がありました
それはどういうことですか/意味はさっぱりわかりません
咲いている花が尚その上にお化粧することを考えた/そんな時代の言葉です
            (「花のことば」)
 
空襲で自宅が全焼し、狭い借家で祖父・父・義母・弟・義弟の6名が起居を共にすることとなり、生活の重圧が彼女の肩にのしかかる中、りんは職場の機関誌に詩を載せるようになり、組合活動にも積極的に関わってゆく。それは間接的にではあっても戦争への協力に手を染めた自身への悔恨に根ざした、やむにやまれぬ動きだったのではなかろうか。

彼女に限らない。無謀な戦争に加担し、他国の人々に多大な被害と苦痛を与え、自らも大きな代償を負った経験は、同時代の人々に強烈な悔恨の共有をもたらした。その悔恨こそが戦後民主主義の起動力となり持続力となった。二度とあの時代に戻りたくない、戻してはならない、という強い思いが、戦後の焼け跡で食うや食わずの暮らしに苦しみながらも、新たな時代を築いていこうとする人々の原動力となったのだ。   <つづく>

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