連載日本史㊼ 弘仁・貞観文化(2)
弘仁・貞観文化のもうひとつの特徴は、文芸を中心とした国家の隆盛を目指す文章経国思想の広まりであった。特に漢文学の発展がめざましい。嵯峨天皇の時代には「凌雲集」「文華秀麗集」、淳和天皇の時代には「経国集」が勅撰漢詩文集として編纂された。仏教界でも多くの著作が生まれ、特に空海は「三教指南」「十住心論」で自身の宗教的立場を示し、「文鏡秘府論」で漢詩文に関する評論を残した。空海自身の作った漢詩文は弟子の手によって「性霊集」としてまとめられている。また、薬師寺の僧であった景戒は、現存する日本最古の説話集である「日本霊異記」を残している。九世紀後半には、後世に学問の神様として祀られることになる菅原道真が、自身の詩文集である「菅家文草」や、六国史の内容を年代順にまとめた「類聚国史」を著した。いずれも、当代一級の漢文で書かれたものである。
文章経国思想の普及は学問や教育の発展を促した。貴族の子弟の教育のために置かれた大学では、儒教の経典を学ぶ明経道、律令・格式を学ぶ明法道、文学・歴史を学ぶ紀伝道、算術を学ぶ算道などの教科があったという。有力氏族たちは子弟のために、大学別曹と呼ばれる寄宿施設の創設を競った。藤原氏の勧学院、和気氏の弘文院、橘氏の学館院、在原氏の奨学院などがこれにあたる。さらに空海は、綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)と名付けた私学を東寺の隣に設け、庶民にも門戸を開いた。残念ながら財政上の理由で二十年後には売却・閉校となったらしいが、当時の教育熱や、教育者としての空海の気概がうかがわれるエピソードである。
漢詩文の隆盛は、書道の発展にもつながった。遣唐使を通じてもたらされた中国の書聖・王義之などの書を手本として、楷書・行書・隷書などの書体が発達した。行書から発展した草書は、やがて仮名文字の創出へとつながってゆく。中でも、空海・橘逸勢・嵯峨天皇は「三筆」と呼ばれ、優れた書家として尊敬を集めた。文は人なり、書は人なり。詩文や書の尊重された弘仁・貞観時代は、貴族の内紛こそあったものの大きな戦乱も死刑の執行もない、日本史上まれにみる平和な時代だったのである。
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