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インドシナ半島史⑦ ~大越国~

ベトナム北部では10世紀に中国の支配から自立した呉朝の後を受けて、ハノイ(昇竜)を首都に、11世紀には李朝、13世紀には陳朝大越国が成立した。13世紀後半にはモンゴル・元軍の侵攻を受け、撃退と服属を繰り返しながらも、断続的に長期にわたる政権を維持した。中国文化の影響を強く受けた大越国では、儒教・仏教・道教が保護され、陳朝時代には漢字をもとにした民族文字であるチュナム(字喃)が考案された。元軍の撃退や漢字起源の文字の創出など、中国周辺に位置する地域としての歴史の流れにおいて、日本とベトナムには共通する点が多々あると思われる。

14世紀末には陳朝内部での豪族の台頭により王朝は弱体化し、宰相による王の暗殺事件が起こる。この内紛による陳朝の断絶に乗じて、明の永楽帝は大軍を送り、北部ベトナムを中国の支配下に置いて「安南」と呼び、直接統治を行おうとした。鄭和の大艦隊による南海遠征やモンゴル遠征など、永楽帝の軍事拡張政策は中華帝国圏の拡大を狙ったものであり、ベトナム侵攻もその一環であった。しかし、ベトナム側の抵抗も強く、永楽帝の死後、反乱軍の指導者であった黎利が明軍を退け、1428年に大越国を再興して黎朝を開いた。こうした古代以来の中国とベトナムの長年の相克は、現代の両国関係にも間接的に影響を及ぼしているように感じられるのである。

一方、中部ベトナムで港市国家として長く繁栄を保っていたチャンパー(占城)も、13世紀の元軍の侵攻を退けたが、15世紀には北部の黎朝大越国からの圧迫が激しくなり、1471年には首都ヴィジャヤを占領されて事実上滅亡した。チャンパーの中心民族であったチャム人は山岳地帯へと移り、現代のベトナムでは少数民族として命脈を保っている。

こうしてベトナムの北部と中部は黎朝大越国のもとで一体化したのだが、この時代においても南部ベトナムのメコン・デルタ地帯はカンボジア(クメール)王国の一部であった。現在のベトナム全域が統一されるまでの間には、さらに三百年以上の歳月が横たわっている。そして、ベトナムと中国の相克と同様に、ベトナムとカンボジアの歴史的な相克もまた、現在の両国関係に少なからず影響を及ぼしていると考えられるのだ。

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